長谷川敦や奈良真が株式会社トラパンツを設立した2000年2月、日本はベンチャーブームのさなかにあった。
動きを先導したのはアメリカの「ドットコム・ブーム」だった。1990年代中頃から、アメリカでは多くのネット系企業が生まれた。1994年、インターネットブラウザのネットスケープ、書籍ネット販売のアマゾンドットコム、ポータルサイト運営のヤフーなどが相次いで創業、1998年にはネット検索エンジンのグーグルが創業した。
これらベンチャー企業の多くは1996年以降に新興企業向け株式市場、ナスダックに上場した。その株式公開は注目を集め、市場は沸騰、1996年頃まで1000前後で推移していたナスダック総合指数は1998年に1500、1999年には2000を突破した。
アメリカの動向と呼応するように、日本でもネット系企業が興隆した。1999年6月、ソフトバンクの孫正義は新興企業向け株式市場、ナスダックジャパンの構想を発表。それに対抗する形で1999年11月に東京証券取引所はマザーズを開設した。同年12月には、インターネット総合研究所とリキッドオーディオ・ジャパンがマザーズ第1号の上場を果たした。
翌2000年3月、マザーズにホスティング事業のクレイフィッシュ、ネット広告事業のサイバーエージェントが上場。クレイフィッシュの松島庸社長とサイバーエージェントの藤田晋社長はともに26歳で、上場企業の社長として最年少記録を作った。その翌月には、堀江貴文が社長を務めるオン・ザ・エッヂがマザーズに上場した。
ネット系ベンチャー企業の多くは渋谷周辺に拠点を構えており、渋谷はアメリカ・カリフォルニアの「シリコンバレー」をもじって「ビットバレー」を呼ばれた。ビットバレーに集結した起業家の間では、ネットエイジの西川潔社長を中心としてビットスタイルという月一回のパーティー形式の交流会が開催されていた。
行政もベンチャービジネスを後押しした。1990年の株価暴落に端を発するバブル崩壊以降、日本経済は長く低迷の中にあった。政府はベンチャーによる新産業創出を経済活性化のエンジンとすべく、ベンチャー企業の資金調達や株式公開を支援する施策を打ち出した。また、日本のベンチャー・キャピタルはアメリカのドットコム・ブームに刺激を受け投資先を探し求めていた。
そして、ベンチャーブームは地方へ波及した。
宮城県仙台市を拠点とする株式会社モモは、ITベンチャー企業として注目を集めていた。
社長の伊藤靖は、秋田県五城目町の出身。秋田高校卒業後、関東の大学へ進み、仙台市で社会人としてキャリアをスタートさせた。彼がスーツ販売会社、外資系生命保険会社の営業職を経て、創業したのが株式会社モモである。モモはSOHOスタイルで働く技術者たちのネットワークを作り、ホームページ作成やデータ入力処理などを行っていた。
社名の「モモ」は、ミヒャエル・エンデの童話からとったものだった。童話の主人公・モモは時間泥棒に奪われた「ゆとりとシアワセ」を町の人に取り戻す戦いを繰り広げる勇敢で純粋な女の子である。伊藤はその思想を自分の会社に反映したいと考えた。
1999年、モモは七十七ビジネス振興財団の「第2回七十七ニュービジネス助成金」の受賞企業となった。受賞理由として「インターネットをインフラとして、『起業家』と『投資家』『支援機関等』を結びつける新たな事業は、新規性、独創性からみても評価に値する」という点が挙げられた。
時代の寵児とみなされた社長の伊藤靖に対してはマスコミからの取材が殺到し、講演依頼もひっきりなしだった。彼は「社長は会社の広告塔」という考えから依頼にはできるだけ応えていた。
1999年の秋、伊藤は出身地・秋田での講演に臨んだ。秋田大学鉱山学部長や他の起業家と登壇した伊藤は、地元での講演を意識していつもより熱く話している自分を感じていた。
彼は、サラリーマンから起業に至った経緯や、秋田生まれの自分が起業して仙台で成功できたことを話し、広い会場をほぼ満席に埋めた聴衆に語りかけた。
「勇気をもって頑張ればきっとできます。」
「いつまでもサラリーマンでいいんですか。起業はかっこいいんだ。さあ、立ち上がろう。」
仙台に戻った伊藤に、秋田県角館町に住む女子中学生から手紙が届いた。その中学生の父親は秋田市での伊藤の講演に刺激を受けた聴衆の一人だった。手紙には「私も伊藤さんのようになりたいです」と書かれていた。
2000年2月、40歳の伊藤靖は仙台市での講演に向かおうとしていた。会場のAER(アエル)は、仙台駅近くに建つ地上31階の高層ビルで、株式会社モモや仙台市のインキュベーション施設も入居していた。伊藤はAER6階の自社から裏階段を上って講演会場となっている7階の会議室に入った。
その時、モモはソフトバンクから6千万円の投資を受けたばかりだった。参加者たちの前に立った伊藤靖は、繋がりを持ったソフトバンクの孫正義や北尾吉孝らの話も交えながら、ベンチャー企業の資金調達戦略について語り始めた。講演を始めてすぐ、彼は聴衆の最前列にいる二人に目を止めた。その二人はまだ20代と思われる若者で、目を輝かせてまっすぐに伊藤を見ていた。
「こいつら何かやるな」
伊藤はその目に行動を起こそうとする者の意気込みを感じた。彼は引っ込み思案と言われる東北人にこそチャレンジ精神が必要だと考え、起業を促す気持ちで講演の依頼を引き受けていた。自分の経験が後に続く者たちに影響を与えていることを実感してうれしくなった伊藤は、さらに熱を込めて話を続けた。
聴衆の反応に手応えを感じながら講演を締めくくった伊藤は会議室を後にした。そして会社に戻るため裏階段を降りていた時だった。不意に背後から慌ただしい足音が迫ってきた。伊藤靖は、かすかに恐怖を感じ振り向いた。
さっき最前列にいた二人の若者が自分に向かって突進してくるのが見えた。山から駆け下りてくるイノシシのようだった。そのうちの一人が紅潮した顔でいきなり叫んだ。
「伊藤先輩!」
伊藤靖の前まで来た二人は、名刺を差し出した。
「起業したいんです。」
渡された名刺には、株式会社トラパンツの文字があった。
「今度、事業計画書を送りますから見てください。」
憧憬のこもった真剣な目で伊藤を見ながらそう言うと、若者たちは階段を引き返して行った。伊藤靖は突然の出来事に驚きながらも、直感的にこの二人なら成功できると思った。
AERの裏階段で伊藤靖にイノシシのように迫った二人は、長谷川敦と奈良真だった。
前年の秋、長谷川は安田琢に誘われて秋田市で開催された講演会に参加し、伊藤靖の話を聞いていた。その時、彼は伊藤が自信に満ちた口調で熱く語っているのに強い印象を受けた。自分が学んだ秋田高校の先輩が40歳という年齢でベンチャー起業者として脚光を浴びている姿を雲の上の成功者のように思った。
そして翌年、まさにトラパンツを創業しようとしている時に伊藤靖が仙台で公演する情報に接し、奈良と一緒に聞きに行ったのだった。階段で伊藤に手渡したトラパンツの名刺は、この時のために新しく作ったものだ。
仙台から秋田に戻った長谷川は、すぐにトラパンツの事業計画書を伊藤靖に送った。伊藤からもすぐにメールが返ってきた。
「素晴らしい事業計画書を読ませてもらいました。」
メールの最後には次の言葉があった。
「がんばれ!」
雲の上の成功者とも思う人の言葉に、長谷川は背中を強く押されたように思った。
その頃、ベンチャーブームが各地方へ波及するのと軌を一にして、渋谷のビットバレーに倣った組織が各地域に作られていた。関西版ビットバレー「フロンティア」、中国版ビットバレー「五空」、九州・福岡を中心とする「ビットベイコミュニケーションネットワーク」などである。
東北では、岩手県盛岡市のIT企業、株式会社デジタル・カルチャー・テクノロジーの藤原隆司社長を代表世話人として2000年2月に「フォレストアレー」が結成された。「フォレスト」は英語で森、「アレー」は路地を意味する。フォレストアレーはニューヨークのシリコンアレーに倣った名称だった。
東北におけるネットベンチャー企業のコミュニティとして発足したフォレストアレーは、会員の交流イベント「フォレストポラーノ」の運営を中心的な活動とした。「ポラーノ」は宮沢賢治の童話「ポラーノの広場」からとった名称である。
第1回のフォレストポラーノは、2000年2月10日、盛岡市で開催された。約100名が参加したフォレストポラーノin盛岡は、フォレストアレーの発足記念セミナーとフォレストアレー発足パーティから構成された。
株式会社モモの伊藤靖は、フォレストポラーノに関して代表世話人の藤原隆司から打診を受けた。盛岡に続くフォレストポラーノin仙台の企画、運営の全般をお願いしたいというものだった。伊藤は仕事が非常に忙しい時期だったが、フォレストアレーの志に賛同して二つ返事で了承した。
彼はフォレストポラーノの企画を考える中で、高校の後輩である長谷川敦に一つ役割を振ろうと思いつき、早速メールを送った。
長谷川に伊藤靖からのメールが届いたのは、トラパンツがまだ事業開始に向け準備をしている時期だった。それにも関わらず、メールにあった伊藤からの依頼はフォレストポラーノin仙台で長谷川に秋田のITベンチャーの代表として挨拶して欲しいというものだった。
目標と仰ぐベンチャー起業家からの頼みを受け、長谷川は意気に感じた。彼は即座に伊藤に返信した。
「先輩、ありがとうございます。ゼッタイ行きます!寝ないで行きます!」
伊藤靖が企画立案、広報、集客からスポンサー開拓、資金調達、運営まで全ての責任を負ったフォレストポラーノin仙台は、2000年4月21日・金曜日に開催された。長谷川敦は奈良真、進藤岳史と一緒に、進藤の自動車で仙台駅の約10㎞北にある会場の新富谷ガーデンシティホールに向かった。
「東北に起こせ!ベンチャームーブメント」をテーマに、「東北全域から有志が集い、21世紀に雄飛するベンチャー起業家のための1000人規模のイベント」を副題にしたフォレストポラーノin仙台は先行した盛岡での交流会に比べて桁違いに規模が大きかった。広い会場には、千人を超えるベンチャー起業家、その予備軍、行政関係者、ベンチャー投資家、大学の研究者、学生がひしめいていた。
午後5時、イベントが始まった。冒頭、フォレストポラーノin仙台を取り仕切った伊藤靖が挨拶した。続いて、ステージいっぱいの広さのスクリーンにソフトバンクの孫正義の映像が現れ、東北の起業家たちにメッセージを伝えた。
長谷川敦の出番はその直後だった。ドライアイスのスモークの中から、彼は壇上に登場した。焦げ茶色のスーツに同色のシャツとネクタイで決めた長谷川は、ステージの上から会場に溢れんばかりの参加者を見て軽いめまいを感じた。そんな多くの聴衆に向かって話をするのは生まれて初めてだった。ITベンチャーと言ってもまだ語るほどの実績はなかったが、彼は秋田代表として意気込んで話し始めた。
「こんにちは!ご紹介いただいた株式会社トラパンツの長谷川敦です。26歳です。今日は秋田からやって参りました。社長の名刺を持つようになって21日目、4月に仕事を始めたばかりです。中小企業のホームページ制作だとかインターネット環境の支援業務を行っているIT企業です。私を含め社員4人の何もない小さな会社ですが、世界を、時代を大きく動かすようなことをやってやろうぜ、ということで始めました。」
「今日は東北中の、というか全国から情熱とか、夢とか、志とかがここに集まっていると思います。私もこの場に立ってとても興奮しています。今日は朝まで語り明かして、いろんな思いを皆さんと語り合って、ここから、東北のベンチャームーブメントを起こしたいと思っておりますので、よろしくお願いします。がんばりましょう!」
長谷川の呼びかけに会場からは大きな拍手が応じた。
フォレストポラーノin仙台は官の力を借りずベンチャー起業家有志を中心とした民間だけの力で運営した祭典だったが、浅野宮城県知事や稲葉東北通産局長も参加した。イベントの目玉として、東京から呼んだシンガーソングライター、青西高嗣による「AOコーナー」の熱唱があった。それはベンチャースピリットがこもった歌で長谷川も好きな曲だった。余興では、トラの全身被りものを着けた奈良真と進藤によるアトラクションも行われた。
宅配ピザ事業を運営するストロベリーコーンズの宮下社長とのトークイベントや同社からのピザの大量の差し入れもあり、起業家たちのエネルギーが渦巻く会場は深夜まで大いに盛り上がった。
長谷川、奈良、進藤の3人は翌朝まで会場にいた。名前を知っていた岩手や山形のIT企業経営者と語り、県外の多くの同業者と知り合いになった。そして紅潮した顔で伊藤靖に挨拶すると、一睡もしないまま再び進藤の車に乗り込み秋田へ向かった。彼らが仙台で宿泊しなかったの節約以外にも理由があった。フォレストポラーノの翌日、秋田市で安田琢の結婚式が予定されていた。
フォレストポラーノin仙台が行われていた頃、秋田ではすでにフォレストポラーノ開催の準備が進行していた。その中心は、北川豊彦と石川直人だった。
北川豊彦は、秋田市で株式会社スタッフを経営していた。スタッフは、練習スタジオを備えた楽器店「ミュージック・スタッフ」としてスタートし、録音・映像制作、舞台音響・照明などへ事業を拡大、数年前からホームページ制作などインターネット分野に事業展開していた。そのことで、北川は秋田におけるネット分野の中心人物の一人とみられていた。
石川直人は、秋田県雄物川町で農家の長男として生まれ、県南の進学校、横手高校から明治大学工学部へ進んだ。高校時代はモントリオール・オリンピックの強化選手になるほどの走り幅跳びの選手だったが、いくつかの大学陸上部からの誘いを断って入った明治大学では路線を一転し、宇崎竜童も所属したことのある軽音楽サークルでギタリストとしてデビュー。渡辺プロダクションからスカウトされ大滝裕子というアイドルのバックでギターを演奏するという経験もした。
大学卒業後、彼は秋田へ戻り須田精一率いる由利工業へ入社した。横手精工など由利工業グループ各社で勤務し、1988年にはグループ会社の一つ日本SMTを立ち上げ取締役に就任した。そして1999年に由利工業グループから独立し、経営コンサルティング会社、R&D創研を秋田市で設立した。
石川は、日本SMT取締役以外の立場でもIT事業に関わりを持っていた。1995年には、所属していた日本青年会議所の仲間と一緒にインターネットプロバイダー、株式会社インターリンク設立に参画した。そのような関係から、石川はフォレストアレー立ち上げに際し秋田事務局の代表を勤めることになった。
石川は1998年に秋田青年会議所の理事長を務めていた。北川は石川の6歳上だったが、二人は秋田青年会議所時代からの顔見知りだった。北川は、イベント運営の前面に立つ役割を石川に振り、フォレストポラーノin秋田の実行委員代表は石川直人が務めることになった。
北川と石川は、フォレストポラーノの準備を、まず実動部隊となる人集めからスタートした。二人が最初にリクルートの対象にしたのは天野洋介だった。
天野は38歳になったばかりだった。彼は日立製作所系列のアキタ電子で、13年間、エンジニアとして半導体製造装置の開発などに携わった。
その後独立し、1999年6月に秋田市で自分の会社、有限会社ガーラ・アマノを立ち上げた。同年8月に、同社は秋田県が行う「秋田県ベンチャービジネススタートアップ支援事業」の対象に選出された。対象事業は、結婚挙式ビデオなどの一般個人向け映像編集であり、ノンリニア編集方式を用いる点に新規性があった。対象企業を選ぶ審査員は秋田商工会議所会頭の辻兵吉や由利工業社長の須田精一が務めていた。後に、天野は自社が選出された経緯について、審査員の中でボス的な存在の辻兵吉が「ガーラは採用しろ」と言ったと関係者から聞いた。
天野は、趣味の面で地域では知られた存在だった。高校生時代には秋田ナンバーワンのアイドルバンド「サクセス」のメンバーであり、その時にバンド仲間の溜まり場となっていたのが、北川豊彦の楽器店、ミュージック・スタッフだった。社会人になってからも、仕事のかたわらラジオ番組のパーソナリティをしたり、300組を超える結婚式の司会をしたりしていた。
2000年の早春、出張から自社に戻ったばかりの天野を、北川と石川が訪ねた。まだ寒く雪がちらつく日だった。
天野が高校生バンドをしていた時から顔見知りの北川豊彦は、フォレストアレー結成から話を始めた。ベンチャー企業のネットワーク組織としてフォレストアレーが作られたこと、フォレストアレーは各県持ち回りで交流イベント、フォレストポラーノを開催する計画であり、秋田でも自分たちが中心になって準備を始めること。それらを説明した後、北川は天野に言った。
「ついては、秋田でのフォレストポラーノに参加してほしい。」
ベンチャー起業家が集まるイベントが秋田で開かれ、自分もそれに主催者の一人として参加する。天野には胸が弾む話だった。彼は「ベンチャー」という言葉に希望と誇りを感じていた。今までの会社とは違う、人がまだやったことのないことをやり、新たな地平を切り開く開拓者。それが天野の持つベンチャーのイメージだった。ガーラ・アマノを立ち上げてまだ1年も経っていないが、彼には自分もベンチャー起業家の一人という自負があった。
天野は即座に北川の依頼を受け入れた。多くの結婚式で実績のある天野は、フォレストポラーノin秋田の司会を担当することになった。
北川と石川が次にリクルートのターゲットにしたのは、デジタル・ウント・メアだった。デジタル・ウント・メアは横手市で中学生相手の学習塾をやっていた戸田和彦が講師の岩根えり子と創業したIT企業であり、ウェブサイト構築とCGI作成を主な事業としていた。まだ法人化していない個人企業だったが、創業時期はガーラ・アマノと同じ1999年6月、平成11年度の「秋田県ベンチャービジネススタートアップ支援事業」の対象企業になったのもガーラと一緒だった関係から、戸田や岩根は天野と親しい関係だった。
株式会社スタッフからは社員の佐藤美穂がフォレストポラーノの準備に加わった。佐藤美穂とデジタル・ウント・メアの岩根えり子は横手高校の同期であり、同じ高校の先輩に当たる石川直人はそのことを知っていた。
そして、フォレストポラーノの準備に長谷川敦や進藤岳史も加わった。北川豊彦はフォレストポラーノin仙台に佐藤美穂とともに参加しており、秋田代表として挨拶した長谷川を準備メンバーに引き入れたのだ。
実動部隊となるメンバーが揃い、本格的にフォレストポラーノin秋田の準備が始まったのは2000年6月だった。イベント開催日は8月9日、金曜日に設定された。その日に向け、会場の手配、後援の取り付け、予算作成と資金調達、ゲストの人選などが話し合われた。
打ち合わせの場所は、秋田市山王のNHK秋田放送局そばにある進藤岳史の店・デルワナワンガーだった。石川を中心とする準備メンバーは、多い時は毎週のようにで各自の仕事を終えてからデルワナワンガーに集まり、飲みながらイベントの内容を話し合った。横手市のデジタル・ウント・メアからも岩根えり子が打ち合わせに参加し、時に社長の戸田和彦が来ることもあった。
北川は、打ち合わせの途中でデルワナワンガーから自社、株式会社スタッフに電話をかけ、準備打ち合わせ用のメーリングリストを即座に立ち上げさせた。
石川直人には一つの狙いがあった。それはゲストに関することであり、誰もが驚くようなビックネームを秋田に招聘しようと考えた。彼には全国レベルの人脈があった。それは一つには日本青年会議所に参加したことで作られたものであり、一つには日本文化デザイン会議をきっかけに作られたものだった。
遡ること2年、1998年5月に秋田市で3日間にわたり「第20回日本文化デザイン会議’98秋田」が開催された。日本文化デザイン会議とは、黒川紀章を代表とする日本文化デザインフォーラムが地方中核都市持ち回りで開催したイベントであり、様々な文化領域に関わる専門家たちが分野の垣根を越えて交流し提言するものであった。
「美人・美酒・美林-三美主義」をテーマにした秋田での開催に関しては、日本文化デザイン会議側は作曲家の三枝成彰が議長となり、地元・秋田側では秋田商工会議所の長谷川専務理事が実行委員長となった。当時、石川直人は秋田青年会議所の理事長であり、副委員長の一人として文化デザイン会議の運営に参加した。
学者の中沢新一や井上章一、作詞家・秋元康、建築家の黒川紀章や隅研吾、俳優の奥田瑛二や川島なお美、作家の島田雅彦や団鬼六、歌人・俵万智、AV監督・代々木忠…。秋田での日本文化デザイン会議には150名を超えるきらめくばかりの才能が集結した。その中に、実行委員の一人、マーケティングコンサルタントの西川りゅうじんがいた。
この機会に石川直人は西川りゅうじんの知己を得た。繋がりは日本文化デザイン会議以後も続き、石川がR&D創研を創業する時には西川からも出資してもらっていた。
石川はフォレストポラーノのゲストに関して西川りゅうじんに相談した。西川は快く自分自身が参加することを約束しただけでなく、他のゲスト招聘についても骨を折ってくれた。その中の一人が一橋大学教授、米倉誠一郎だった。
経営学を専門とし一橋大学イノベーション研究センター教授を務める米倉誠一郎は、ベンチャービジネス研究の第一人者であり、2000年6月に講談社から「ネオIT革命―日本型モデルが世界を変える」を出版したばかりだった。
他のゲストに関しても、西川の協力もあって、未来証券株式会社・専務取締役の酒井雅子、株式会社ライブドア代表取締役社長の前刀禎明、ビットバレーアソシエーション・ディレクター松山太河などの参加が決まっていった。
後援に関しては、行政関係では秋田県、秋田市、財団法人あきた産業振興機構、民間では、秋田商工会議所、秋田県中小企業団体中央会の後援が決定した。秋田県は通産省から出向していた関総一郎商工労働部長が先頭に立ってフォレストポラーノの企画、運営に協力した。
秋田市は盛夏を迎えた。毎年8月3日から6日ま秋田の夏祭りを代表する竿燈祭りが行われる。その祭りが終わってから3日後の8月9日・金曜日は、最高気温が30度を超える真夏日だった。北川や石川たちフォレストポラーノ実行委員会のメンバーは、5月の福島、6月の山形に続く、秋田でのフォレストポラーノ開催日を迎えた。会場は秋田駅に近い秋田ビューホテルだった。秋田ビューホテルでは、北川の株式会社スタッフがステージング業務を担当しており、フォレストポラーノ当日、北川は照明、音響、映像関係を取り仕切る裏方に回った。
4階の宴会場会場には、約160人の経済人、行政関係者、大学等の研究者や学生が集まっていた。人々の目をひいたのは、寺田典城秋田県知事、石川錬治郎秋田市長、辻兵吉秋田商工会議所会頭の3人がこの場に揃っていたことだった。この三人が同じ会合に集まることはめったになかった。秋田県ベンチャービジネススタートアップ支援事業の審査でガーラ・アマノを推した秋田経済界の重鎮、辻兵吉は上下白のスーツ姿だった。
午後6時、司会役の天野洋介はステージ右端に立った。ドラムロールが響く中、天野はイベントの来賓とゲストを一人一人ステージに呼び上げた。
「秋田県知事、寺田典城!」
「ライブドア社長、前刀禎明!」
スポットライトの中、呼ばれた全ての人物が登壇し終わった時、ステージ上には寺田県知事、石川秋田市長、辻会頭、そしてゲストとして招聘された酒井雅子未来証券専務、前刀禎明ライブドア社長、マーケティングコンサルタント・西川りゅうじん、ビットバレーアソシエーション・ディレクターの松山太河、米倉誠一郎一橋大学教授らが並んでいた。それは、これまで行われたフォレストポラーノの中でも群を抜いて豪華な顔ぶれだった。
天野はステージに並んだゲストたちを一度会場に戻すと、次に一人ずつ再び登壇させ、スピーチを求めた。北川豊彦の操作するビデオカメラがスピーチしているゲストの姿を捉え、ステージ横のスクリーンにアップで映し出した。天野は、北川の凝ったステージングにワクワクしなが司会をしていた。
ステージに立った辻兵吉は、挨拶の中で石川直人を「私の友人、石川君」と呼んだ。
会場では参加者が円形テーブルの周りで食べ、飲みながらながらゲストスピーチを聞いていた。その場の雰囲気に興奮したのか、司会をする天野の前に寺田県知事が現れステージの上の天野に手を伸ばし握手を求めた。寺田は握手しながら「ベンチャーには金を出すよ」と話した。
豪華なゲストたちのスピーチが続く中、秋田県ではありがちなことだったが、参加者たちに酒が入った会場は次第に宴会状態と化していった。ついにイベントの白眉と言うべき米倉教授のスピーチの場面となったが、すでに酔っ払って床に座り込む者もいる状態であり、米倉の話を静聴するという雰囲気ではなかった。スピーチを始めようとした米倉は、その雰囲気にいらだち西川りゅうじんに向かって叫んだ。
「おい西川、これ何とかしろ!」
経済界だけでなく寺田知事や石川市長など行政の長も顔を見せた参加者の広がり、ゲストの豪華さ、会場の熱気、フォレストポラーノin秋田は大成功を収めた。
その会場で、長谷川敦は石川直人に紹介され参加者たちに挨拶をして回った。長谷川が仙台のフォレストポラーノで挨拶したことを知っている者も多く、長谷川が持っていた名刺はほとんど底をついた。
石川は経済界のみならず行政、研究機関の関係者も良く知っており、その顔の広さに長谷川敦は驚いていた。
その人脈は、石川が須田精一の由利工業グループの中心で活躍し、秋田青年会議所の理事長を務めたことで培われたものだった。TDK発祥の地であり関連企業群が立地する秋田県において電子部品製造はリーディング産業であり、由利工業はその業界を代表する企業だった。社長の須田精一は、「21委員会からの提言・秋田をこう変えよう!」を出した21委員会の会長であり、1998年には秋田県電子工業振興協議会会長に就任していた。
石川はフォレストポラーノ会場以外でも何人かの経済界の関係者を長谷川に引き合わせた。その中の一人に荒牧敦郎がいた。地元銀行系列の経済研究所に勤務する荒牧は、石川と横手高校の同期だった。高校時代、二人はお互いの存在を知っていたもののクラスも違い話す機会がなかったが、社会人となってから仕事上でやり取りするようになっていた。
ある日、石川は気の置けない仲間5~6人と「スッポンを食べる会」を開いた。会場は川反の水月という料理屋で、ここのスッポンは彼の好物だった。スッポンの甲羅が飾りとして壁に並ぶ水月に集まったのは、石川のほか長谷川敦などトトカルチョマッチョマンズのメンバーと株式会社スタッフの佐藤美穂、そして荒牧だった。
ただし、長谷川が荒牧と会うのはこれが初めてではなかった。長谷川が安心経営時代に事務局を担当した流通問題研究会には研究所で商業分野を担当する荒牧も参加していた。もっとも、長谷川はそれを覚えていたが、荒牧は長谷川を記憶していなかった。
石川と同期の荒牧は長谷川より16歳年上になるが、最初、長谷川は若く見える荒牧を同年代と思っていた。水月のスッポン鍋を前に、長谷川は話した。
「いやー、オレは荒牧さんの事をタメ(同年代)と思ってましたよ。荒牧君もがんばってるなあって。」
そして長谷川はイーストベガス構想のことも話した。
「トトカルチョマッチョマンズは、秋田でカジノを中心にしたまちづくりをしようという活動をしているんです、ラスベガスのような。」
その言葉に荒牧はある講演を思い出した。それは数年前に聞いた三菱総合研究所の佐藤公久常務の日本経済の見通しに関する講演だった。その中で、今、最も人気のあるホテルがアメリカのラスベガスのホテルで家族でも一泊60ドル(約6千円)で泊まれることや、ラスベガスは賭博場だけではなくファミリーで楽しめる観光都市に変貌している点に言及されたことが荒牧の印象に残っていた。彼は、長谷川に尋ねた。
「どうして、秋田にカジノを作るという発想になったの。」
「ラスベガスは何もない砂漠の上に作られた街です。何もない所に作ることができたんだから、秋田でも出来ます。」
荒牧は重ねて聞いた。
「もし秋田にカジノを作って、ラスベガスと競争になったら何を売りにするの。秋田らしさを前面に出すとか…。」
長谷川は答えた。
「そうじゃないんです。今まで、米だとか木材とか、ナマハゲとかいろいろやってきて、それでも人口減少も止まらず、うまくいかなかったでしょう。何もない所からゼロから新しいものを作りたいんです。」
「今さらナマハゲや竿燈やカマクラじゃないっていうこと?」
「そうです。」
荒牧は続けた。
「でもカジノって今は禁じられてるよね。そういう構想を聞いて、みんな何て言う?」
「まあ、あんまり現実的な話と思わない人もいます。ホラ話としか受けとらなかったり。」
「へーえ。」
荒牧には長谷川が考えてることが分かってきた気がした。荒牧は研究所の調査誌に「秋田県を21世紀日本のモデルに」というレポートを書いたことがあった。それは、住友キャピタル証券、佐野一彦チーフストラテジストによる「民族大移動」の提唱を引用しながら、人口減少が続く秋田県の現状を逆転するため都会から地方への人口移動の方法を探る考察だった。
長谷川がやろうとしていることは、共通の問題意識に立っていると思えた。
もちろん長谷川敦は石川直人にもイーストベガス構想のことを話した。デルワナワンガーで飲みながらフォレストポラーノの打ち合わせをするかたわら、秋田にカジノを中心とするまちづくりをしようとしていることを打ち明けた。
石川は構想を当然のように受け入れた。彼は、由利工業の仕事で韓国企業と合弁事業を立ち上げた経験があった。その際は毎月のように韓国を訪れ、ウォーカーヒルのカジノで遊んだことも再三だった。先進国の中でカジノが合法化されていないのは日本だけであること、カジノの立地が治安の悪化につながらないことも認識していた。
だから、長谷川がイーストベガス構想を話した時、石川から返ってきたのはそれに対する賛成や反対の反応ではなく、初めからどうやって構想を実現するかという方法論だった。石川は長谷川に話した。
「元気があっていいねって言われてるだけじゃダメだよ。」
彼は、長谷川が熱意だけで突っ走っていると感じ、具体的な方向を指し示した。
「自分たちが圧力団体になるようじゃなきゃ。政治家や社会的なポジションのある人を取り込むか、誰か自分が立候補して県議会に行くくらいにならなきゃ実現しないよ。」
秋田県経済界の中心にいるような人物でイーストベガス構想に理解を示してくれたのは、石川直人が秋田日産自動車社長の三浦廣巳に続いて二人目だった。大物感をただよわせる石川が親身になってアドバイスする言葉を聞きながら、長谷川敦はイーストベガス構想が実現に向かって大きく前進したように感じていた。
(続く)