雄和タウン創造プランナーズによる伊藤町長へのプレゼンから2か月余りが経過し、秋田は木々の新緑が目にまぶしい季節を迎えていた。
2000年5月26日、金曜日、最高気温が25度を超えた天気の良い日だった。夕刻、トトカルチョマッチョマンズのメンバーたちはその週の最後の仕事を切り上げると秋田駅に集合した。駅舎は秋田新幹線の開業に合わせて1997年3月に改築、開業していた。36年間使われた旧駅舎に替わった新駅舎はアルミとガラスを主材とする明るくシャープな外観ながら、表玄関に当たる西口とメイン改札口を結ぶ通路は内装に木材が多用され暖かさを感じさせる。
この日、秋田駅に来たのは長谷川敦、奈良真と妻の美香子、安田琢と妻の智子、渡部巌とその彼女、伊藤修身、美奈子、美咲の10人だった。
彼らを乗せた新幹線は暮れなずむ秋田駅から発車した。夏至へと向かっていく季節であり、午後7時になっても辺りは明るさを保っている。車窓の外にはしばらくは田植えの終わった田んぼの風景が続いた。それが秋田杉が立ち並ぶ山の風景に変わる頃、窓の外はやっと夜の闇へと沈んでいった。
秋田新幹線「こまち」の車内にまとまって席を占めたトトカルチョマッチョマンズ10人の目的地は東京、主目的は石原都知事が掲げたカジノ構想の舞台、お台場の視察だった。視察を実行することになったきっかけは、前年11月に井崎義治を秋田に招いたことだった。東京から遠路秋田まで来てくれた井崎は、長谷川たちに言った。
「今度はぜひあなた達が東京に来てください。私が案内します。」
その誘いに応じ、今日、トトカルチョマッチョマンズは東京を目指していた。目的地では井崎がアテンドしてくれることになっている。長谷川敦は視察に向かうメンバーを遣隋使、遣唐使になぞらえ「遣流山視察団」と名付けた。千葉県流山市は井崎の住む街である。
秋田新幹線の秋田駅-盛岡駅間はフル規格ではなく、狭軌の在来線のルートにレールを足して広軌にした「ミニ新幹線」である。新幹線こまちは大曲駅でのスイッチバックして進行方向を変え、やがて岩手との県境をなす奥羽山脈を貫くトンネルへと入って行った。
車内の10人は修学旅行に行く高校生のように旅を楽しんでいた。長谷川敦はそんな仲間たちと談笑を交わしながら考えていた。
今回の東京視察を遊びだけで終わらせちゃいけない。イーストベガス構想を一歩でも前に進めるような成果を上げるためにはどうしたらいいだろうか。
長谷川たちはまだ20代半ばであり、ともすれば遊び、楽しむことに重きを置き目的を見失いがちになる。長谷川はそれを自覚していた。どんな行動をする時も、みんなのモチベーションにためには楽しむ事は大切だが、それと同時に目的に向かって成果を積み重ねていかなければならない。
盛岡駅で東北新幹線の車両と連結したこまち号は、フル規格の新幹線ルートを一路南下した。秋田を発ってから約4時間後、一行は上野駅で新幹線を降りると常磐線に乗り換え、千葉県柏市へ向かった。今日の宿は柏駅前のビジネスホテル、柏プラザホテルである。11階建てのホテルに着いた時は深夜になっていた。トトカルチョマッチョマンズは軽めの夕食をとり、各部屋に分かれて旅の疲れを休めるべく眠りに就いた。
翌5月27日、土曜日、柏プラザホテルで朝食を摂り、暫しの休息を取っていたトトカルチョマッチョマンズを井崎義治が迎えに来た。青い半袖のポロシャツを着て腰にはウエストポーチを付けたカジュアルな姿だった。
一行がこの柏に宿を取ったのは井崎の提案を入れてのことだった。旅の目的がお台場視察だけであれば千葉県柏市まで足を伸ばす必要はない。井崎の自宅は柏市の西隣、流山市にあり、井崎はトトカルチョマッチョマンズに柏市を案内したいと考えていた。
都市計画を研究する井崎は約1年半前の1998年11月に「これから発展する街 衰退する街-21世紀のビジネスチャンスあふれる街はここだ!」という書籍を朝日ソノラマから出版していた。これはビジネスの出店・閉店戦略や住宅購入を考える際に知っておくべき都市の盛衰の動向とその読み方を解説したものである。本の中で井崎は、地理的な関係や人の流入・流出、交流人口、街のイメージ、住民の所得水準など様々なデータを基に東京近郊の街を比較、分析し、人口減少時代にあっても伸びる街や反対にダメになる街を根拠立てて説明していた。
その中で、「今、伸びている街」であり、かつ「これから伸びる街」として挙げられた中に井崎の住む流山市、そして隣接する柏市があった。柏市については「なかでも柏駅周辺の市場規模と商業集積は東京大都市圏でも有数の規模に発展しつつあります。」と述べられていた。
トトカルチョマッチョマンズは井崎の案内で、柏市の駅前などの再開発地域を視察した。井崎の著書にあるとおり柏駅周辺には高島屋、そごう、丸井など大規模な商業施設が集積している。都市計画の専門家である井崎は、施設などのハードと施策のソフトの両面から柏市が人の流れを引き寄せることに成功した要因を説明した。
発展著しい中心街区の視察を終え柏市を後にしたトトカルチョマッチョマンズは井崎と共にお台場に向かった。
一行は新橋駅で新交通システム・ゆりかもめに乗り換えた。出発すると間もなく行く手に高い二つの主塔が特徴的な巨大な吊り橋、レインボーブリッジが見えてくる。ゆりかもめは、ループ状の走行路をぐるっと回ってからレインボーブリッジに乗り海上を渡る。対岸はもうお台場地区である。
車窓から目にするお台場は広大な開発途上の土地だった。海沿いの平坦な土地には自然や生活の匂いのあるものはほとんど見当たらず、あちこちにホテル、博物館、放送局、ショッピングセンターなどの巨大な構造物が存在する。それはいかにも人工的な街区という印象を与えた。
井崎とトトカルチョマッチョマンズは青海駅でゆりかもめを降り、最初の目的地、ビーナス・フォートへと向かった。ビーナス・フォートは、まだお台場に数の少ない集客力の大きな商業施設である。長谷川もこの施設が女性をターゲットとしているという記事を何かで読んだように記憶していた。一歩、建物の中に入ると長谷川敦や奈良、美咲、美奈子などラスベガスの地を踏んだことのあるメンバーはすぐに同じことに気づいた。それはラスベガスのホテル、シーザースパレスに隣接するフォーラム・ショップスと瓜二つの造りだった。
通路の天井には空が描かれ、建物の内部は商店の建ち並ぶ街区をまるごと模している。いくつかの通路が集まる広場には「本家」と同じに噴水までもが造られていた。長谷川はビーナス・フォートとフォーラム・ショップスの結びつきに、お台場カジノ構想の影を考えずにはいられなかった。
「これはカジノをこの地に建設する伏線なのだろうか。このお台場という地区は、やっぱり、ラスベガスを意識しているのか。」
彼は胸の中で独りごちた。すると、突然一つの感情が胸にわき起こった。
「先を越された。」
イーストベガス構想がまだ地域の中ではっきりした理解を得ていない段階で、お台場カジノ構想は着々と形になっているように感じたのだ。
それから一行は観覧車に乗り、高所からお台場地区の全体像を見た。その後、台場駅でゆりかもめを降りフジテレビへと足を向けた。テレビにも良く登場する大きな階段脇のエスカレーターで上の階に上り、そこからエレベーターで一気に放送局ビルの高層階へと到着する。フジテレビ社屋の一番の特徴をなす球体には、朝の番組「めざましテレビ」の放送が行われるスタジオがあった。
井崎は球体の高い窓から、フジテレビそばの空き地を指しながら言った。
「お台場カジノが実現するとしたら、ここがその舞台になるでしょう。」
確かにそこにはまだ手の付けられていない土地があった。しかし、長谷川や琢たちには、その空間がずいぶん狭いものに感じられた。井崎は秋田に来た時、イーストベガスを実現するには200ヘクタールの土地が必要だと言ったのだ。みんなはその言葉を覚えていた。フジテレビから見下ろす空き地は200ヘクタールどころか、その十分の一もないように見える。
トトカルチョマッチョマンズの頭に浮かんだ考えを代弁するように井崎は続けた。
「ここに造るとしても、カジノホテルとしては本当に最低限の施設しか造れないね。」
長谷川はその言葉にわずかな希望を見いだした。
「なるほどなぁ。」
石原慎太郎の政治力を考えると、イーストベガス構想よりもお台場カジノ構想の方が実現可能性が高いように思える。しかし、長谷川が考える世界中から来る人々全員を楽しませる街を実現するには、お台場に残された空間は明らかに小さかった。秋田には利用できる遥かに広い土地がある。
「俺たちの方が勝っているところもあるんだ。」
長谷川は改めて思った。
トトカルチョマッチョマンズはお台場の視察を終えると再び柏駅前に戻り、そこで井崎を交えて夕食を摂った。夕食後、井崎と別れた長谷川や奈良、琢、美奈子たちはめったに来ることのない首都圏での夜を楽しもうと夜更けまで何件かの飲み屋やカラオケをはしごし、そして全員したたかに酔った。
5月28日、日曜日、二泊した柏駅前の柏プラザホテルをチェックアウトしたトトカルチョマッチョマンズは、流山市に向かった。井崎の家を訪問するためである。閑静な住宅街にある井崎の自宅に着いたトトカルチョマッチョマンズはほぼ全員が二日酔いだった。井崎と上品な奥様は、そんな一行10名を快く家に招き入れた。
井崎は自らカレーライスを作って長谷川たちに振る舞った。そのカレーはメチャメチャ辛く口にする度に汗が噴き出るほどかったが、トトカルチョマッチョマンズの二日酔いを覚ますには好都合だった。
長谷川や琢、美奈子たちはカレーを食べながら井崎といろいろな話をした。
東京都杉並区で生まれ、千葉県柏市で育った井崎義治は、地図を見ながら自転車で街を走り回るような子供だったという。そんな子供がやがて都市計画を専門とする道に進むのは必然だったのかも知れない。彼は、アメリカの大学および大学院で都市計画を学び、卒業後もアメリカで都市計画コンサルタントとして勤務した後、1989年に帰国した。
帰国後、井崎が流山市に居を構えたのは偶然の成り行きではない。日本での居住地を決める際に、専門家としていろいろな街を念入りに比較した。その結果、選んだのがこの流山市だった。緑が多く、首都圏の中でも発展しつつあり、かつ今後の発展の可能性が大きい街は、井崎にとって理想の居住地だった。
極辛カレーで少し気持ちの引き締まったトトカルチョマッチョマンズは、井崎の自宅を辞し次の目的地へ向かった。それはイーストベガス構想を掲げる長谷川たちにとって競争相手の本丸と言うべき所、すなわちお台場カジノ構想を唱える石原慎太郎が知事として君臨する東京都庁だった。
トトカルチョマッチョマンズたちは、西新宿に建つ都庁舎の前に立った。それは圧倒的な存在感だった。道路を隔てた低層の議会棟と二つの渡り廊下で結ばれた都庁舎は遥か見上げる高さに二つの塔を持ち、圧迫するような力を感じさせた。とても雄和町役場や秋田県庁とは比較にならない。その偉容は中小国家をしのぐ財政規模を持つ東京都の力を形に表しているかのようだ。
それでも長谷川敦は、この都庁舎の主、石原慎太郎を対等な競争相手として見ていた。彼らは、受付へ行き石原知事との面会を申し込んだ。もとよりアポイントなしの突撃であり、多忙な都知事との面会がかなうはずもなかった。
トトカルチョマッチョマンズはせめてもの証しに都庁前で写真を撮った。長谷川敦が庁舎の知事室があると思われる辺りを指さし敢然とにらみつけている写真である。
「石原慎太郎よ、堂々と勝負しろ。イーストベガス構想は、お台場カジノ構想には負けない。」
長谷川敦は知事室にいるはずの石原に向かって心の中でそう言っていた。
遣流山視察団のほとんどのメンバーにとって、この東京都庁訪問が目的地での最終行程となった。彼らは、再び秋田新幹線の車上の人となり、秋田への帰路に就いた。
一方、長谷川敦と奈良真は残りのメンバーと別れ、東京に残った。長谷川たちにはもう一つの目的があった。二人はその夜、上野で一泊3千円のカプセルホテルに泊まった。そのホテルは本当にぼろぼろであり、そんな所に泊まっていることにみじめさを感じるほどだった。
5月29日、月曜日、長谷川と奈良は、東京・渋谷に出て一人の女性と落ち合った。その石井という女性は長谷川の雄和中学校時代の同級生であり、東京でアパレル関係の仕事に就いていた。前もって連絡を取り、ちょうど今日が彼女の休日だと言うので一日付き合ってもらうことにしていたのだ。長谷川は彼女に言った。
「石井、お前は今日、株式会社トラパンツの女性役員だ。」
「トラパンツの女性役員?」
訝しがる昔の同級生に長谷川は続けた。
「そう。俺はトラパンツの社長、ここにいる奈良はトラパンツの役員、そして石井もトラパンツの役員。今日はいろんな会社でいろんな人に会うけど、そう名乗れよ。もし名刺交換になったら、今日は忘れてきたと言って謝れ。いいな。」
長谷川と奈良は、今日一日、渋谷のITベンチャー巡りをするつもりだった。その頃、渋谷は勃興しつつあるIT企業が集まり熱い盛り上がりを見せていた。長谷川と奈良は、トラパンツの経営者として、IT企業が集まる渋谷の雰囲気を確かめたかった。それだけではない。もしそうしたIT企業となんらかの関係をつけることができれば、今後のトラパンツの事業に役立てようという意図も抱いていた。
とは言え、さえない風体の若造二人が秋田から来た会社役員と自己紹介しても信用されないおそれがある。それで女性役員という立場で石井にも加わってもらうことにしたのだ。その方が話に信憑性がある。
石井を含む三人は、渋谷の地図上にマークしたIT企業の所在地を見ながら、片っ端からローラーをかけた。例によってアポイントなしの突撃訪問であり、じっくり話を聞いてくれる会社はなかった。受付で用件を伝えた後、奥から誰かが出てきて長谷川が自己紹介して名刺交換、それだけでその会社を後にするというパターンが続いた。石井は長谷川に言われたとおりトラパンツの役員として振る舞った。
長谷川も奈良もTシャツというカジュアルな服装だったが、訪問先のIT企業で会う社員たちもスーツを着ている者などおらず、みんなTシャツやジーンズといったカジュアルルックで、普通の会社との違いを感じさせた。長谷川敦がその時着ていたTシャツは美由紀とアメリカに新婚旅行に行った際に買ったもので、胸には大きく「SOHO」という文字が書かれていた。それは芸術家の街として脚光を浴びたニューヨークのソーホー地区を示していたが、一方で「SOHO」は、スモールオフィス・ホームオフィスの略語としても使われており、訪問したIT企業では自宅勤務を行う者が仕事をもらいに来たと受け取られることもあった。
三人が訪問した企業の中には、ITベンチャーの雄、株式会社サイバーエージェントもあった。
サイバーエージェントの社長、藤田晋は、長谷川敦と同年代である。同社はトラパンツ設立に先立つこと2年、1998年3月に設立されたばかりだったが、2000年3月には早くも東証マザーズに上場を果たし社会の注目を集めていた。
インターネット広告を主事業とするサイバーエージェントの本社は、渋谷駅のハチ公像から遠くないマークシティという高層ビルにあった。近代的なマークシティビルのエスカレーターに乗りサイバーエージェントの受付に向かいながら、長谷川と奈良は、同年代の藤田晋が設立した会社を上場させ、こんな大きなビルに本社を構えていることをスゴイと感じていた。
受付で面会を申し出たものの、上場して間もなく多忙を極めている藤田社長への面会は当然かなわず、トラパンツの名刺を残して三人はサイバーエージェントを去った。
その日、長谷川、奈良、石井の三人は、受付近くの接客コーナーで名刺交換するだけの突撃訪問を繰り返していたが、ついにやや長く話のできる会社に行き着いた。その会社は、前年の11月に設立されたばかりの株式会社アクシブドットコムだった。社長の尾関茂雄はサイバーエージェントに勤務した後、インターネット事業に特化した同社を設立したのだった。
長谷川たち三人の前に現れたアクシブドットコムの役員は、IT企業の例に漏れずカジュアルな服装だった。長谷川はトラパンツの社長として自社の事業内容を話し、アクシブドットコムとの仕事上の関係が作れないかを探った。アクシブ役員の話の中にはIT関係の横文字が頻発し、それらの用語は長谷川にはほとんど理解できなかったが、長谷川はさも分かっているように受け答えをした。当日の訪問の中では間違いなく最長の会話を交わした後、「お互い頑張っていきましょう」とエールを交わして、長谷川、奈良、石井の三人はアクシブドットコムを辞した。
建物を出てから、長谷川は奈良真に聞いた。
「奈良、アクシブの話の中に横文字の言葉がたくさん出てきたけど、意味分かったか。」
奈良の答えは思ったより頼もしかった。
「ああ、7、8割は分かったよ。」
「そうか。それならいい。」
長谷川は奈良の知識を見直した。
(続く)