特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第11章「起業」 3.町長・伊藤憲一

長谷川敦が起業を決意した1999年初冬、テレビや雑誌ではミレニアム(千年紀)という言葉が踊っていた。実際は20世紀の最終年は2000年、21世紀最初の年は2001年であり、ミレニアム(千年紀)が切り替わるのはまだ1年先の事なのだったが、9が3つ並ぶ1999年から0が3つ並ぶ2000年への移行は大きな時代の転換を示す象徴のように意識されていた。

年代に関わるもっと現実的な問題としては「コンピュータ2000年問題」があり、企業や役所は対応を迫られていた。多くのコンピュータプログラムが年数を西暦の下2桁で表していたことから、2000年を迎えプログラム上の年数表示が「99」から「00」と変わった瞬間に、コンピュータシステムがそれを2000年ではなく1900年と認識し誤作動を起こすと懸念された問題である。電気、水道、ガスなどのライフライン、鉄道、航空などの交通、さらに、金融、通信など社会の根幹をなすシステムにエラーが発生し大混乱が起こる恐れがあるという指摘がされていた。

例年とは違った高揚感と緊迫感が漂う年の暮れ、ゆうわタウン創造プランナーズが取り組んでいるプロジェクトは、重要な局面を迎えていた。
1999年11月の下旬、井崎義治を秋田に迎えカジノを核とするまちづくりのレクチャーを受けてから、プランナーズによるイーストベガス構想の取りまとめは加速した。というより、むしろ井崎の来訪を機に本格的なスタートを切ったという方が正確だった。

雄和町の事業としてプランナーズが発足したのは1999年6月。その日から彼らは役割を分担して「構想」作りに取りかかったが、当初は「大捜査線2」、そして井崎来訪という大きな二つのイベントの準備を並行して進めたため、そちらに活動時間の大部分を当てざるを得なかった。

しかし、井崎を秋田に迎えたことはプランナーズたちの活動に期待をはるかに超えた推進力をもたらした。都市計画の専門家、井崎義治はトトカルチョマッチョマンズが進んでいる方向が正しいことを担保し、彼らがためらいがら問いかけた全ての疑問に具体的で説得力ある回答を返した。それまでの活動過程では、ごく少数の例外を除いて周囲から活動に理解を得られないでいた長谷川敦たちにとって、井崎の一つ一つの言葉は暗闇を照らす光のように思われた。

東京へ戻る井崎を秋田空港で見送った日の翌週、12月1日の午後7時30分、プランナーズはいつもの会合場所である雄和町農村環境改善センターの一室に集まった。降雪はなかったが、西からの強い季節風が本格的な冬の到来を感じさせる日だった。この日のテーマは、雄和町長へのプレゼンに向けてどのようにアクションを起こすかということだった。

彼らの活動には期限があった。雄和タウン創造プランナーズは雄和町の事業の一環であり、行政年度を活動期間の区切りとしていた。したがって、彼らがまとめようとしている文書、すなわち、雄和町の中でのイーストベガスの姿を示す透視図も、平成11年度の終わりである2000年3月末まで完成し町に提出する必要があった。彼らはその活動成果「イーストベガス構想」を行政トップの雄和町長、伊藤憲一に対してプレゼンテーションすることを計画していた。井崎が来訪した際、プランナーズの活動に対して全面的なバックアップを伝えた町長に長谷川たちはしっかりした成果で報いる気持ちを固めていた。

プレゼンテーションの日は、2000年3月12日、日曜日に定められた。残る時間はもう3か月しかない。プランナーズは活動開始の時に設定したギャンブル(カジノ)、ショッピング、アミューズメントなどコンテンツ毎の分担をいったん解消し、メンバーの役割をイーストベガスの姿を具体的な数字で描写するという面から組み立て直した。
イーストベガスはどの地域から何人の観光客をこの地に吸引するのか?それらの観光客はトータルエンターテイメントシティーでの魅力にどれだけの対価を支払うのか?その金は地域にどんな効果をもたすのか?今、プランナーズの頭の中にあるのは、それらを根拠を持った数字として示すことだった。

彼らは担当分野ごとに資料を調べ、データを探し、雄和町に建設するイーストベガスの具体的な姿を描くことに集中した。それは決して理想郷を夢見ることではなく、自分たちが生まれ育ち、生活する郷里・秋田、そして雄和町で実現しようとする都市の設計図を描くことだった。

彼らは経済効果の数字を積み重ねる過程でも、遠い秋田まで足を運び一緒に飲んでくれた井崎に助けを求めた。何度も作成途中の構想を送って支援を求めたプランナーズに対して井崎は労を惜しまず助言をくれた。カジノを核とするエンターテイメントシティーの経済効果を求めるには、どんな観点が重要であり、どの要素が不可欠なのか。プランナーズが見落としている側面はないのか。井崎は持っている知見を惜しみなく長谷川たちに分け与えた。

4年前、1996年にスタートしたヤング部会が、足かけ3年に渡る行程の果てにやっと提言書を形にしたことに比べると、プランナーズが取り組んだプロジェクトは光速と言っていいほどのペースでその成果を現しつつあった。

ミレニアム最後の年、2000年が明けた頃、雄和町は長谷川敦がラスベガスへの卒業旅行から帰って来た時と同じように真っ白な雪景色の中にあった。プランナーズの中で、長谷川と奈良は株式会社トラパンツの創業準備と並行して「構想」の仕上げに取り組んでいた。それは2月下旬にほぼ形を現し、3月3日の最終校正を経て完成を見た。雪国秋田にかすかに春の気配が感じられ始める頃だった。

「イーストベガス構想」は極めてシンプルだった。ヤング部会の「雄和町への提言書」が優に100ページを超えるボリュームを持っていたのに比べ、プランナーズの「構想」は全体で39ページに過ぎなかった。内容も「提言書」がラスベガスやカジノについて自分たちの知り得たこと全てを盛り込もうとして、やや統一感がないきらいがあったのに対し、「構想」は内容を思い切り絞り込み、読む人が何の紛れもなく内容を理解できるように簡潔に記述された。

「構想」は3つの部分から構成された。第1に、郷里・雄和町そして秋田県にカジノが必要な理由、次に本論であるイーストベガス実現による地域への効果、最後に、イーストベガスを実現するために必要なことが述べられた。
 
プランナーズの提言レポート「イーストベガス構想」の冒頭は次のように記された。
 
今日、雄和町はもちろん秋田県の各市町村は、少子化や若年層の県外流出などに起因する人口減少・高齢化問題、また所得水準の低さなど慢性的な問題も抱えており、もはや一刻の猶予もない危機的な状況にある。平行して介護保険の問題や税収問題も町民、県民に大きな負担として暗い影を落としている。このような状態は何も秋田県だけの問題ではなく全国的な懸案課題になっており、各自治体では躍起になって解決策を模索している。そんな中、現在その解決策としてにわかに浮上し俎上にあげられているのが「カジノ合法化論議」である。

続いて、レポートは沖縄県や石原都知事が主導する東京都の「お台場カジノ構想」に触れ、沖縄県や愛知県でもカジノ議論が真剣に語り始められていると述べた後、次の言葉で、第1章を終わった。
「5年以内にカジノ法案が可決する可能性が高い」これはある専門家の言葉である。
この「専門家」とは、もちろん井崎義治のことである。

続く第2章は、本論部分であり、最初に「イーストベガス構想」の意義が説かれた。
私たちはこの雄和が、この秋田が好きであり、この地をどうにかして楽しくしたい。しかし、友人の多くは高校を出るやいなや、大いなる夢を抱いて東京へ行ってしまった。このままの人口推移でいけば秋田は20年後には世界一の高齢者県になると言われている。そればかりか100年後には人口がゼロになってしまうという説もある。私たちは何とかしてこの秋田を若者が夢を持てるような活気あふれる楽しい街にしたい。その為にはすべての人間が楽しめるあらゆる「本質的な魅力」を有するエリアにしたい。その本質的な魅力とは人間が誰しも有する本能とか欲望を満たすものである。
私たちは提案する。この秋田を複数の魅力を有する「トータルエンターテイメントシティー」に創り変えることを。これが私たちの提唱する「イーストベガス構想」である。

ここでレポートは趣を一変し、トータルエンターテイメントシティーであるイーストベガスが実現した場合に、どのような経済的効果があるか専ら数字を用いて叙述した。
彼らは当初採用した各コンテンツの集客力から来訪者を割り出す手法を放棄し、想定したホテルの宿泊部屋数25,000室のキャパシティからイーストベガスへの来訪者数と経済効果を推計する手法で新たに数字を組み立てた。その過程で、伊藤修身がソープランドの店員に怒鳴られながらまとめたコンテンツ「風俗」に関する経済効果はカットされた。

 プランナーズはホテルの稼働率を80%と設定し、年間ホテル宿泊者数が1,095万人、年間日帰り客数を74万8千人と見積もり、イーストベガスの年間来訪者数を約1,200万人と推計した。この数は秋田県で最も観光客の多い男鹿国定公園の平成10年度の観光客数約224万人の約5倍に当たる。

そして、この1,200万人の来訪者の消費額、つまりイーストベガスに落とす金額は、プランナーズがこれまでに収集したラスベガスの資料、週刊誌「ぴあ」のコンサートチケット販売に関するデータ、1999年レジャー白書などの統計資料などから、次のように算出された。
カジノ収入3,000億円、アミューズメント(テーマパーク、ゲームセンター等)151億円、ナイトショー136億円、ホテル収入657億円、以上の合計で約4,000億円。なお、この金額にはイベント・コンベンション収入は含まれていない。

また、イーストベガスが地域にもたらす雇用はラスベガスのデータから、当初4年は約10万人、イーストベガス完成後10年までに13万6,700人と算出された。さらに、カジノ売上からの町への交付金と来訪者の消費にかかる消費税(雄和町分)だけで約34億円と推計された。この他にも定住人口増加による住民税・法人税の増加や固定資産税の増加等が見込まれるとした。これら税の増収は公共施設の整備や社会福祉の充実など人々にゆとりと安らぎを与え、さらに住民や地域企業の減税も可能とすることが述べられた。

最終章、第3章では、イーストベガス構想を実現するための方法論が述べられ、今すべきことは、カジノ法案が可決され、国がその候補地を絞る段階になったとき「この秋田県雄和町に」と手を挙げるために町、県が一丸となって準備することであるというのが、その結論であった。

レポートは次の言葉で結ばれた。
「秋田にはカジノを誘致するための土地と人材が十分にある。」冒頭の専門家の言葉である。
21世紀に向けアジアに、世界にこの秋田から情報を発信すべく旗を揚げるのはまさに今現在であり、その旗手はまぎれもなく我々市民なのである。

ただし、「構想」の完成で伊藤町長へのプレゼンテーションに向けた準備が完了した訳ではなかった。長谷川と奈良は、マイクロソフト社のプレゼンテーションソフト「パワーポイント」を使って自分たちの構想をアピールする計画を立てた。

長谷川は、前の職場である安心経営に勤務している時、ビジネス用統合ソフト、オフィス98に実装されていた「パワーポイント」に出会った。それはまだ一般にはあまり知られておらず、長谷川自身も仕事ではほとんど使わなかったが、動きのある画像や音声を交えて表現できるプレゼンツールを面白いと思い、2年前のトトカル・ミーティングのミニミニ講演会で使ってみた。

「またお会いしましたね!」
若い女性の声と画像で始まる「ラーメンについて」というミニミニ講演会のプレゼンは、パワーポイント10枚のスライドから成り、ラーメンの定義、旨味成分・グルタミン酸とラーメンが日本で普及した現象の関係、さらに損益分岐点分析も含むラーメン屋の経営分析まで踏み込んだ内容だった。ミニミニ講演会でプレゼンをみたトトカルチョマッチョマンズのメンバーたちは一様に「すごい」という声を上げた。その時から、プレゼンを行うならこのソフトだということが長谷川たちの共通認識となっていた。

2000年3月の初旬、長谷川と奈良は、創業後間もないトラパンツに届いたソニー・バイオの電源を入れ「イーストベガス構想」を表現するパワーポイント・ファイルの作成にとりかかった。長谷川が「構想」を基に話したい内容を文字原稿にし、それを奈良がパワーポイントのスライドに落とし込む作業を行った。3月12日・日曜日のプレゼンまでもう日がなく、2人はトラパンツに連日泊まり込み、最後の2日は徹夜になった。

3月12日、日曜日、空は晴れていたが北北西の季節風が強く吹いていた。「ゆうわタウン創造プランナーズ学習成果発表会」という横幕が貼られた改善センターの一室には、タウン創造プランナーズ最後の活動となるプレゼンテーションの出席者が揃っていた。プランナーズ側からは、長谷川や奈良、伊藤敬、美奈子、美咲たち中心メンバーだけでなく、長谷川の妻、美由紀や、琢の彼女の智子、進藤岳史、次郎などトトカルチョマッチョマンズのメンバーも含め17名が顔を揃えた。そして、行政側からは、プランナーズの活動を見守ってきた社会教育課の浦山と公民館長、伊藤洋文、そしてプレゼンテーションの対象である雄和町長、伊藤憲一が参加した。

机を並べて作った四角形の一辺、プレゼンターの正面に座る伊藤憲一は、第2次世界大戦中の1943年に生まれた。金足農業高校を卒業後、26歳で雄和町職員になり公務員としてのキャリアをスタートさせると、7年後、33歳の若さで雄和町の収入役となった。さらに5年後、38歳で秋田県議会議員に転じ、県議会副議長を最後に10年間の議員生活を終え、町長選挙に当選、48歳で雄和町長となった。そして、町長として8年目の今、髪をオールバックにまとめ黒縁のメガネをかけたその風貌は若々しかった。

午後1時30分、長谷川敦、伊藤修身、渡部巌、鈴木美咲の4名をプレゼンターとする「イーストベガス構想」の発表が開始された。長谷川がメインの発表者となり、その話に合わせて奈良がノートパソコン・バイオのマウスをクリックし、パワーポイントのスライドを進めていった。

机の上のプロジェクターから町長正面のスクリーンにパワーポイントのスライドショーが投影された。「街づくりプレゼンテーション2000 イーストベガス構想」と題されたスライドショーは、「Prologue イーストベガス構想」から始まった。

「いいのですか?」
若い女性の声とともに、スクリーン上に秋田県の人口を示す棒グラフが現れた。
「いいのですか?…いいのですか?…いいのですか?」
女の声が続くと同時に棒グラフは右側に加わっていった。それは現在120万人を超えている県の人口が、「ウナギ下がり」に減少していき2025年には100万人を下回ることを示していた。
次の文字が現れた。
「なにしろつまらない」
そんな秋田から若者たちは迷わず都会へと出て行く、それが秋田の現状だった。

本論となる「Report 雄和が秋田を変えよう」では、雄和街づくりプランナーズの考えるイーストベガス構想を提示した。
戒厳令下の街のように活気が失われた秋田を変えるには、誰もが行きたいと思えるトータルエンターテイメントシティーの実現が必要だ。

ぴゅーっと風が吹くような効果音とともに「1200万人」の文字が現れ、爆発音とともに「集客力が秋田を変える」の文字が続いた。
次のスライドに移ると、ドラムロールが鳴る中、「売上総額4,000億円」、「雇用創出136,700人」、「新規税収34億円」というイーストベガスの経済効果が現れ、それを見て「ちょっと待で、本当だげ(ちょっと待て、本当か?)」と言う伊藤町長の画像が登場。さらにスライドが進むと、キャッシュレジスターの引出が開く効果音とともに万円札の束が上から落ちてきて「カジノ売上3,000億円」、「アミューズメント売上150億円」、「ショービジネス売上136億円」、「ホテル売上657億円」という金額が次々に現れ、最後にそれらを合計した「全体売上4,000億円」という金額が浮かび上がった。

続く数枚のスライドでは、経済効果や雇用創出、そして新規税収の根拠を詳細に示し、経済規模まとめのスライドには、緑色の髪の毛を逆立てた伊藤憲一町長が「超スッゲー」と叫んでいる画像が登場した。

最後の「Solution イーストベガス構想の実現に向けて-雄和町への提言-」というパートでは、イーストベガスを建設する具体的な場所を提言した。井崎がレクチャーしたイーストベガスの立地条件、すなわち「空港に隣接していること」、「広大な土地であること」、「周囲と隔てられた空間であること」の3条件が示された。スクリーン上の地図に、周囲三方を雄物川で囲まれ、約200ヘクタールの面積を持つ雄和町高清水地区が表示され、3条件を満たすのはこの高清水地区であることが示された。

最後のスライドで、プランナーズは「このプレゼンテーションを単なる学習の成果ではなく、真摯な政策提言と受け取っていただきたい」と訴え、行政として「プロジェクトチームの編成、プレスリリース、世論形成などの戦略策定」を行って欲しいと町長である伊藤憲一に迫った。

メインプレゼンターの長谷川敦は、目の前の伊藤町長に向かって大きな声で熱く語りながら手応えを感じていた。プレゼンを初めてすぐ、伊藤憲一の表情が変化していくのが分かった。真剣な目でこちらを見ている56歳の政治家の顔に表れている感情は驚きだった。長谷川はプレゼンをしている間中、自分たちの提言は確かに伊藤町長に届いているという実感を持ち続けた。

お台場カジノ構想など他の地域の動きや、カジノ法案に関する状況の説明を含めて2時間近いプレゼンが終わり、司会役の伊藤修身が伊藤町長に講評を求めた。

「はっきり言って、非常にびっくりしました。」
それが、修身の求めに応じた町長の第一声だった。伊藤憲一は言葉を続けた。
「私たち行政の中でもいろんな調査や予測をやりますが、それをはるかに上回るスケールの構想を描いている。その点に敬意を表したいと思います。」
それは長谷川や奈良や琢や美奈子たちの予想を超えた好意的な反応だった。
「私も髪の毛がああなりそうな、本当に夢のあるプランをまとめていただいて、うれしく思っています。」
スライドショーに出てきた自分の逆立った緑色の髪に触れ、プランナーズを笑わせた後、伊藤はもっと踏み込んだ話を始めた。

「課題はだいぶ明確になってきたのではないかな。さっき話が出たカジノ法案がなんとなるかということもあるし、誰がきっかけを作って主体になってやっていくかということもあるし、最終的には場所をどこにするかという問題も出てくる。あとは、町民の皆さんとか、あるいは議員の皆さんがどういう受け止め方をするかということも当然あるし、それを行政の立場でどうサポートしていくか。」
長谷川は伊藤憲一の言葉を聞きながら身体が震えだしそうな衝撃を感じていた。その言葉はイーストベガス構想を実行に移すことを前提に、何が乗り越えなければならない課題なのかを列挙していた。

町長は続けた。
「雄和町として、この構想をとにかくやるんだという意思決定をしていかなきゃならないのですけど、そういう段階をいつしていくのかということもある。しかし、筋書きとしてはかなり可能性のあるものとして、私は今、受け止めた。」

ここで伊藤憲一は、少し話の方向を変えた。
「国は今、市町村合併ということを進めようとしています。この4月からは地方分権で国が持っている権限をかなり地方に委譲しますが、今のように小さい自治体では、地方分権に応えるような自治はできないであろうと、だから合併しなさいというのが国の指導です。それを受けて秋田県も、前に新聞にも載りましたがシミュレーションをやっています。その考え方の中には、秋田市、河辺町、雄和町が一つのエリアとして、一つの市になるという構想が今月中には出てくるのではないかと思います。」

この時、国は全国的な市町村合併「平成の大合併」を推し進めようとしていた。そして、それはイーストベガス構想の実現にも大きな関わりを持っていた。伊藤町長は言葉を続けた。
「ま、国や県としては、今そういう合併の動きがあって、実際のところ、我々がこういう一つの自治体の中で事を起こしていくというのは、現実的には難しいのです。こういう構想を議会に提案することになれば『何考えているんだ』ということになると思います。」

結局は「難しい」という結論になるのか、一度盛り上がった長谷川敦の気持ちが落ち込みかけた時、町長の話は人口の問題に移っていった。
「県は市町村合併を考える中で、資料として雄和町が将来どれくらいの人口になるかというのを出しています。現実に、雄和町の去年生まれた子供の数が43人です。町内には小学校が四つありますが、1クラスくらいしか子供の数がいない。本当にここ十年以内に何らかの手を打たないと学校も持たないという状況になることは明かになっています。」

さらに伊藤は、地域が若者をとどめる魅力を持っているかという点に言及した。
「そういう中で、皆さんのような若い人がどんどん出て行くというのがこれまでの傾向でありましたし、秋田県は我々の町を含めて若い人が定住して夢を持って暮らせるような状況にはなっていないと私は思っています。ですから、やっぱりこの構想が秋田県を変えていく、雄和町を変えていくということ、長谷川君が最初から言っている人間の本質的な求めに応えるのがこの構想だということ、そこのところをみんなで理解してもらうということが必要になると思います。」

話はさらに具体的な点に進んだ。
「我々も、どの時点で決断して具体的に行政の計画の中に入れていくか、相当な決意を持ってやっていかなきゃならないと思う。ちょうど今、雄和町で『総合発展計画』の中期計画という5年計画をこの12年度中に作りますけれど、この5年計画の中で手を付けるか、あるいは、その次の5年計画の中に入れていくか、12年度中には皆さんの構想をまちづくり構想の中に入れていけるような仕掛けをしなければならないと思っています。」
今、プランナーズが耳にしているのは、「イーストベガス構想」を雄和町の行政計画に組み込むという町長の言明だった。

「大変素晴らしい。皆さんがここまで、ここまでやれるとは私も思っていなかったので。いや本当に大したもんだなという、ホントだかという…。」
伊藤憲一は、話の最後に再びプレゼンの中に出てきた自分の言葉を使ってプランナーズを笑わせた。

20分以上にわたった伊藤町長の講評は、結論として、イーストベガス構想の全面的な肯定だった。この日と同じような雪景色の中、ラスベガス旅行から戻って来た長谷川敦が、あゆかわのぼるの講演を聞いて絶望的な気持ちの中でイーストベガス構想を考え出したあの日から4年、今、構想は行政を動かそうとしていた。
長谷川だけでなく、この場に集まったトトカルチョマッチョマンズのメンバーたち、そして、彼らの活動を見守ってきた雄和町職員、浦山の気持ちは高揚していた。

長谷川は、東京にいる井崎に完成したレポート「イーストベガス構想」とプレゼンテーションに使ったパワーポイントファイルを送った。井崎をそのレポートについて「カジノを中核とする街づくり計画として最高水準」というお墨付きをくれただけでなく、これだけの内容なら、無料で配布しないでレポートが欲しいという先からはお金を取った方がいいとまで言ってくれた。

プレゼンテーションから1週間が過ぎた頃、長谷川敦は、熱い気持ちのまま町長へのお礼状を書いた。「御礼と情熱」というタイトルが付されていた。
プレゼンテーションに参加し、構想に理解を示してくれたことへの感謝の言葉に続いて、長谷川は次のように書いた。

「課題の一つに、『世論』ということがありますが、トトカルチョマッチョマンズでも今年の目標を『イーストベガス構想』の世論形成にして、様々なアクションを考えておりまます。さっそく、近畿大学から提出したレポートを売って欲しいという引き合いがありました。さらに、在京新聞社、地方新聞社の社会部扱い(今までは文化部扱いでした)で、扱ってもらうよう働きかけていきます。あゆかわ先生なんかは『TV番組でしゃべれば』と言ってます。いろんな方法があると思いますが、気合い入れて頑張ります!
石原都知事が議会で『お台場カジノ構想』に言及したように、東京都は本気です。秋田も、雄和も、本気で取り組むことが重要だと思います。日本では秋田が一番初めに描いた構想が、二番煎じにみられないためにもプレスリリースを早めたいと思います。タイムラグを空けてはいけません!」

長谷川は、雄和町の総合発展計画に『イーストベガス構想』を組み入れることを要請し、自分の会社「トラパンツ」を設立したことを報告してお礼状を締めた。

4月、雪に覆われていた雄和町の田んぼの土が再び姿を現した頃、長谷川たちは伊藤町長へのお礼状に記したように報道機関へのアプローチを開始した。手始めに秋田県庁内にある県政記者クラブにトトカルチョマッチョマンズ名で取材の依頼状をFAXで送付した。

この依頼状は、「私たちは秋田を面白く変えたい若者たちです」という自己紹介に続いて、日本初のカジノ産業の地域経済波及効果調査書をまとめたこと、雄和町長が町の運営指針である「総合発展計画」に提言を反映させることを言明したことを述べ、「このFAXが秋田を劇的に変える第一歩となるよう願って連絡をお待ちしております」という文で終わっていた。

長谷川敦たちトトカルチョマッチョマンズの活動は、1998年11月に実行した「大捜査線」が注目を集めたことなどから次第に地域社会に知られるようになり、新聞等でもかなりのスペースを割いて取り上げられるようになっていた。
1999年1月1日付け河北新報、秋田版では、「わくわくしようよ」というシリーズ企画の1回目としてトトカルチョマッチョマンズが取り上げられ、「つまんねえ秋田を破壊せよ!」「ラスベガスつくろう」という見出しと共にヤング部会のラスベガス視察を含む活動内容が紹介された。1999年6月10日付け朝日新聞、秋田版では「この人に聞く」というコーナーで、「イーストベガス構想で秋田の変革を提唱する長谷川敦さん(25)」というタイトルのもと「秋田をラスベガスみたいな楽しい若者を引きつける都市に変えよう」という構想の内容が説明された。
また、1999年12月25日付け日経流通新聞は「地方の流行人(しかけにん)」というコーナーで、大捜査線の開催や井崎義治との研究会を含むイーストベガス構想にかかる活動など長谷川たちの活動を詳しく報道した。

伊藤憲一を前に発表した「イーストベガス構想」に関しては、プレゼンテーションから2週間後、2000年3月26日の朝日新聞、秋田版がプレゼンテーション場面の写真付きで「構想」の内容を紹介し、さらに「これはギャンブルというより、地域に雇用や集客などを生み出すひとつの産業だ」という井崎義治のコメントを掲載した。
同年4月21日付け河北新報は東北地方のニュースを報道する紙面で、「秋田・雄和にラスベガスを」という見出しでプレゼン実施の様子や構想の内容を報道した。また、同年5月22日の読売新聞、秋田版は「カジノ誘致で活性化を」と長谷川たちの活動や町長プレゼンテーションを伝えた。
長谷川たちがまとめたイーストベガス構想は、このようにメディアを通して地域社会の中で周知されていった。

(続く)