特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第11章「起業」 2.株式会社トラパンツ

長谷川敦の頭には、子供の頃からずっと一つの固有名詞が存在し続けていた。「虎パンツ工業高校」。その固有名詞はある感情と分かちがたく結びついていた。
長谷川が初めて野球と出会ったのは、まだ小学校低学年の頃だった。彼は寺の境内、近所の広場、稲刈りの終わった田んぼに近所の友達と集まり、夢中になって野球をした。グラブを持っている子などおらず、ボールとバットだけが彼らの道具だった。お寺の大きな銀杏の木が一塁ベースだったり、広場の隣の消防小屋がレフトスタンドだったりした。暗くなるまで泥だらけになってボールを追い続ける彼らには、憧れがあった。阪神タイガースの縦縞のユニフォーム、甲子園でその名をとどろかす池田高校やPL学園。彼らはその憧れの対象に自分の姿を重ねてボールを投げ、バットをスイングし、チームワークを覚えていった。
ヘトヘトになるまで遊んで家に帰っても、「明日はもっとうまくやりたい」という思いからワクワクして夜も眠れない。長谷川にとって野球はそういうものだった。
友だちの1人が、自分たち野球仲間に「虎パンツ工業高校」という名前をつけた。

その時から約20年が経過した。しかし、その名前は依然として長谷川敦にとって夢や憧れ、ワクワク、ドキドキする気持ち、仲間とのつながりの象徴だった。それは「人間の夢や希望でできた仮想のハイスクール」を意味した。
ずっと暖めてきた起業という計画を実行するに当たって、彼は子供の頃の野球仲間のようなチームを作ろうと思った。夢の実現に向かって一緒に胸を躍らせながら夢中になる、そういう会社を実現したかった。
長谷川は、ずっと頭にあったその固有名詞を新会社の社名にしようとした。ただし学校でもないのに「高校」とつけるのはさすがにためらわれ、それは外すことにした。彼は、起業を決めるとすぐにトトカルチョマッチョマンズの仲間たちに「虎パンツ工業」という社名を発表した。誰もが冗談だと思ったらしく反対の意見は出なかった。
長谷川は「虎パンツ工業」ではパンチが足りないと考え「虎パンツ工業ジャパン」に、さらに「虎パンツ工業ジャパンジャパン」に社名案を変更した。そのアイデアを周りに話すと、どうやら長谷川は本気らしいと感じたトトカルチョマッチョマンズの仲間たちや親、親戚だけでなく、新会社の創業スタッフからも猛反対にあった。

安田琢からはこんなメールが届いた。

アツシよ・・・・。
オレはお前が心配だ。何が心配かって?
それはお前の興そうとしてる会社のこと。アツシよ。
お前は今まで、何でもこなしてきた。何でも自分でやり遂げてきた。だから心配だ。
会社を興す事を決めたのはいいけど、
その名前が 「虎パンツ工業ジャパンジャパン」じゃやばいぜ。

会社は利益を追求するものだ。
そのためには頭の固い人から仕事をもらうこともあるだろう。
この事業はあくまでも駆け出しで、いきなり仕事が入るとは限らない。
要は、世の中の半分以上は頭の固い連中だって事だ。
いきなりビジネスチャンスを半減する必要はないって事だ。

アツシよオレはお前が心配だ。足下をしっかり見据えて、大風呂敷を広げよう。
「虎パンツ工業」を真剣に、「いいセン行ってる」と言うアツシにささぐ。

そうこうしているうちに2月6日となった。会社設立予定日の2月15日までは10日も残っていない。未だに社名は決定していなかった。長谷川たちは開業準備で忙しいにも関わらず、社名のことのみでこの日から3日間苦悩した。
長谷川は、ここへきて「虎パンツ工業ジャパンジャパン」も含め今までの社名案を白紙に戻し、一から考え直すことにした。思いあまった彼は、「トトカルチョマッチョマンズ」の命名者でネーミングに独自のセンスを持つ伊藤敬に名付け親になってもらおうと考えた。この時、伊藤敬は病気で入院中だったが、長谷川はお構いなしに敬に命名を頼んだ。
伊藤敬から届いたネーミングは「株式会社マグナムイゴッソー」だった。この命名は「酒豪」、「頑固で気骨のある男」を表す土佐弁の「いごっそう」から取っていた。迫力あるネーミングに一度はこの社名に決まりかけたが、しっくりこないという気持ちがぬぐえずお蔵入りとなった。

その後、なんとなく思いついた「freebee」という名前や、創業スタッフ全員で映画「ネバーエンディングストーリー」のビデオを見た末に考えた「ファンタージェン」という名前に決定しようという場面もあったが、その度に「やっぱり違う」という思いが勝ち、社名は再三再四白紙に戻った。

2月8日、長谷川の社名についての考えは一回りして原点に戻った。彼は、やっぱり「虎パンツ工業」が一番いいと思った。この社名に決めようようと創業スタッフに言ったが、みんなは反対した。スタッフの反対は主に「工業」という字句に向けられていた。社名に「工業」とついていれば建設業や製造業に間違われるのではないかと心配したのだ。長谷川は一緒に事業を始める仲間とのチームワークを考え、社名案からまず「工業」をとった。次に「虎」も漢字からカタカナに変更した。このような経過をたどり、最終的な決定が行われた。
「株式会社トラパンツ」
それが新会社の社名となった。すぐに長谷川はハンコ屋にその社名の印鑑を注文した。

2月15日、最高気温が0.3度という極寒の日だった。北西の季節風に乗った雪が吹きつける中、長谷川敦は出来上がったばかりの印鑑を携えて県庁に近い秋田地方法務局に向かった。彼は法務局で会社の設立登記申請を行い、受理された。
この日、秋田で事業を始めるという長谷川の計画は株式会社トラパンツという形をとって動き出した。

創業スタッフ4名は長谷川の自宅2階の6畳間に集まり、株式会社トラパンツをスタートさせた。経費を切り詰めるため、当面はその部屋を事務所として使うつもりだった。と言っても、事業内容として選んだホームページ制作を行うスキルは誰も持っていない。奈良は前年夏にトトカルチョマッチョマンズのホームページを立ち上げていたが、それは素人が見よう見まねで作ったものであり、とても人様から代金をいただくような出来ではなかった。彼らは、トラパンツの営業活動を4月1日から開始することにし、それまで1か月半でホームページ作成のスキルを身につける計画を立てた。

そんな彼らに、安心経営で営業をしている長谷川の元同僚、高橋正人(たかはしまさと)から連絡があった。
賃貸オフィスの入居者を探している取引先があるという。そこをトラパンツのオフィスに使ってはどうかという提案だった。出費を惜しんだ長谷川が断ろうとすると、高橋正人は物件の家賃を伝えた。月6万円、それが大家が設定した家賃だった。それならなんとかなる、そう思った長谷川は現場を見に行った。そのオフィスビルは、秋田市川尻大川町(かわしりおおかわまち)にある「アップヒル21」という2階建ての建物で、1階では「冷やかけ納豆」が有名な安澄(あずみ)というそば屋が営業していた。オファーされた物件は階段を2階に上がり一番奥の部屋でオフィスとしては最低限度の広さだったが、それでも6万円という家賃は格安と思えた。

トラパンツは賃貸契約を結び、設立の数日後にはその部屋へ入居した。彼らは、秋田市内の中古家具屋を回り、スチールデスク、書棚、キャビネットなど最小限度の備品を安い価格で買いそろえた。商売道具となるパソコンだけは、ソニー製バイオのノートパソコンを新品で買うことにした。機種をバイオにしたのは奈良の発案だった。彼はバイオのパソコンがカッコイイと思っていた。

彼らは、注文したバイオが納品されるまで自宅にあったパソコンを会社に持ってきてホームページ制作スキル習得に取りかかった。マクロソフトという会社の「ドリームウィーバー」というホームページ制作ソフト、「ファイアワークス」という画像処理ソフトが彼らの先生だった。それらのソフトはプロユースでありながら「フォトショップ」等の超高価ソフトに比べると安価で手が出しやすかった。ドリームウィーバーには、チュートリアルという操作方法を覚えるための補助教材がついており、それをやることによりホームページ制作の基本を身につけることが出来るようになっていた。
この時は、売上も立っていない段階でお金の動きがあまりなかったため、会計といっても月に1、2日もあればまとめられる状況だった。したがって経理担当として加わった夏井麗も他の社員と一緒にホームページ制作の学習をした。

彼らは、ホームページ制作スキル習得のかたわら、ネットで全国のホームページ制作会社のサイトを見て回った。他の会社がどんなサービス・メニューを提示しているか、どんな価格を設定しているか参考にするためである。
トラパンツのオフィスにぴかぴかのバイオ・ノートパソコンが揃ったのは3月も中旬になった頃だった。

4月1日、雌伏の冬を過ごした株式会社トラパンツも雄飛すべき春を迎えた。ホームページ制作の基本スキルを身につけた社員たちは、予定どおり営業活動を開始した。
長谷川敦は安心経営時代に作った会社経営者たちとのコネクションを頼って各企業への営業に回り、奈良やコロボックルも知り合いのいる企業に営業をかけた。彼らは営業を行う際、相手先ごとに「ホームページ企画・運用ご提案書」というペーパーを作って持参した。このペーパーには、ホームページ制作の目的、コンセプト、ホームページ開設による効果などを盛り込み提案の説得力を高める工夫をしていた。営業活動を行っている際、長谷川は提案書に関して意外な言葉を言われた。
「ホームページを作りませんかという話は他からもあったけど、こういう提案書を持ってきたのはお宅だけだな。」
他の会社も当然、同じような提案書を基に営業しているだろうと考えていた長谷川はあっけにとられた。
この時、秋田県内にはホームページ制作専門の会社は2、3社のみであり、他には印刷会社が社内にホームページ制作部門を持っているくらいだった。トラパンツの提案書を用いた営業に対して相手方の反応も良く、「うちもいつかはホームページーを作りたい」という会社も何社かあった。しかし、実際に制作を頼むという所はなかなか現れなかった。

そんな中、やっと受注に結びつきそうな営業先が現れた。秋田市の老舗旅館である旅館榮太楼だった。
旅館榮太楼の社長、小国輝也は、安心経営時代に長谷川が事務局を務めていた流通問題研究会のメンバーであり、「大捜査線」の時もトトカルチョマッチョマンズに協賛金を出してくれていた。往年の大横綱、大鵬と姻戚関係にある小国はまだ30代でインターネット戦略に関して積極的だった。数年前に開設した旅館榮太楼のホームページは秋田県内の企業サイトの先駆けであり、そのホームページ開設が日本経済新聞の地方版に記事として掲載されたほどだった。

トラパンツは榮太楼向けの「ホームページ企画・運用ご提案書」で、集客力をさらに向上させるようにホームページをリニューアルする提案を行った。主眼は、顧客がホームページから宿泊予約が出来るようにすることだった。従来のホームページには顧客が予約を行う機能がなかったからだ。また、トラパンツは大鵬や貴闘力という角界とのゆかりをアピールして、旅館榮太楼とちゃんこ鍋のブランド力アップを図り、幅広い受注につなげることも提案した。
小国輝也はこの提案を受け入れ、榮太楼がトラパンツのホームページ制作受注第1号となった。ただし、長谷川たちは手放しで喜んでいられる状況ではなかった。なにしろトラパンツにとって、これが初めてのホームページ制作となるのだ。初仕事のホームページ制作は主に奈良真と夏井麗が担当したが、案の定スムーズには進まなかった。トラパンツは、自分たちが制作可能なメニューを提示して受注するというより、ホームページ制作を受注してからそれに必要な制作スキルを習得するという完全な泥縄状態だった。
小国社長から「遅い」という度重なる催促を受けながら、奈良真と夏井麗のチームはやっと6月になって旅館榮太楼のサイトをネット上にアップした。初めて売上に結びつく仕事をやり遂げ、長谷川敦始めトラパンツ社員たちはしばしの感慨にふけった。

小国輝也にとってホームページリニューアルの効果は予想以上だった。ホームページ開設後、それを経由して次々に宿泊予約が入ってきた。それまでは旅行エージェントを通しての宿泊予約が大部分であり、その分のマージンをエージェントに払っていたが、自社予約を取ることにより旅館の利益率が向上した。トラパンツはこの実績とツールを基に他の旅館、ホテルに営業をかけ、次のホームページ制作受注につなげていった。