特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第10章「展開」 4.井崎義治の来訪

1999年、東京は猛暑の夏を迎えていた。7月半ばからは毎日のように真夏日が続いた。
東京都台東区東上野三丁目、上野駅から程近い6階建てのビルに株式会社エース総合研究所のオフィスはあった。ビルの最上階で都市計画コンサルタントとして執務していた主席研究員、井崎義治に一本の電話がかかってきた。

電話を取った井崎に相手は言った。
「初めまして。私は秋田県に住んでいる長谷川敦と申します。私は井崎先生の『ラスベガスの挑戦』という御本を読んで大変感動しました。」
井崎はその言葉を聞いて驚いた。著書「ラスベガスの挑戦」の出版から2年近くが経過していたが、読者から電話をもらうのはこれが初めてだった。同時に、自分の著作への好意的な感想を直接聞けたことをうれしく思った。

長谷川敦と名乗った電話の相手は話を続けた。
「私は秋田で、ラスベガスを手本としたまちづくりをしようと活動しているグループの代表をしています。つきましては、都市計画の専門家でラスベガスについて詳しい井崎先生にぜひ私たちの活動にアドバイスをいただきたいと思いまして、今日はそのお願いでお電話しました。」
その話しぶりは至極真面目だったが、井崎には「秋田でラスベガスを手本としたまちづくりを実現させる」という話の内容はあまりにスケールが大きく奇想天外に思えた。

相手はさらに話を続けた。
「私たちのまちづくり構想についてまとめた資料があります。それを井崎先生にお送りしますので、どうか読んでください。私たちは、構想を実現するために定期的に会議を開いて活動しています。ぜひ井崎先生に秋田まで来ていただいて、その会議でお話をして欲しいんです。」
電話だけでは相手が言っている話の全体像がつかめないと考えた井崎は、取りあえずその資料を読んでみることにした。井崎は答えて言った。
「お話の内容はだいたい分かりました。では、まずその資料を送ってください。」

数日後、エース総合研究所に秋田から資料が届いた。
その資料は井崎の予想を超える200ページ程度の分量があった。資料を読み始めた井崎が最初に感じたのは、地域衰退への危機感だった。人口減少と高齢化、それは日本の全域で起こる事が予想されていた。しかし、秋田では全国の先頭を切ってその現象が進行していく。資料を作成した若者たちはその事に危機感を抱き、地域衰退を何とかして食い止めたいと考えを巡らせた。そして彼らが到達したのが「イーストベガス構想」、つまり強烈な魅力により世界中から人を集めるラスベガスを手本としたまちづくりだった。井崎はさらに資料を読み進めるうちに若者たちの危機感と地域活性化にかける熱意に圧倒された。彼らが掲げる「イーストベガス構想」は地域への効果も考えられ、都市計画の面からみても多方面からきちんと練られたものと思われた。

石原東京都知事が就任以来「お台場カジノ構想」を提唱していることは報道により全国的に知れ渡っていたが、日本の他の地域、石川県の珠洲(すず)市や沖縄県でもカジノ設置の構想が打ち出されているという情報を井崎は把握していた。ただし、石川県珠洲市や沖縄の構想がまだ着想段階にとどまっているのに対して、「イーストベガス構想」は具体的なまちづくり計画に踏み込んた体系的な構想案だった。その先見性は驚くべきものだった。

井崎は20歳代の若者たちがカジノ法制化も視野に入れ壮大な挑戦に真剣に取り組んでいる心意気に感動した。資料を読み終えた井崎は長谷川敦に連絡を入れ、イーストベガス構想実現への取り組みに協力したいと伝えた。

秋田に来ることを承諾する井崎の連絡を受け、長谷川敦は小躍りして喜んだ。
長谷川がエース総合研究所の井崎義治に電話したのは半ば衝動的な行動だった。ある日、彼は勤務先のオフィスで井崎の「ラスベガスの挑戦」を読み返した。そして、ゆうわタウン創造プランナーズがまちづくり計画を作る上で、なんとか都市計画の専門家、井崎義治の力を借りたいという思いに駆られていた。長谷川は、本の奥付にエース総合研究所の電話番号が書かれているのを見た時、反射的に机の上の電話機からその番号に電話したのだった。長谷川が井崎に送ったイーストベガス構想の資料は、夢広場21塾ヤング部会がまとめた「雄和町への提言書」だった。
井崎から秋田来訪の承諾を得て以降、長谷川は井崎とメールで連絡を取りながら秋田訪問の日程を詰めていった。

メールでの日程調整は極めてスムーズに進んだ。それはスムーズに進んだだけでなく、長谷川の期待を大きく超える地点に着地した。確定した日程には、井崎義治が11月20日から22日までの3日間を割いて秋田に滞在し、講演やまちづくり計画構築へのレクチャーをする予定が組み込まれていた。

その年は秋田も暑かった。秋田市では7月26日からの27日間真夏日が連続した。その暑さの中、トトカルチョミーティングで一つのプロジェクトの実行が決定された。
前年11月に参加者217名を集めて実行し好評を博した「大捜査線」をさらにスケールアップして今年も行うことにしたのだ。開催日は11月7日・日曜日、捜査本部は昨年同様セリオンプラザに設定された。再び、実行委員会メンバーの睡眠時間を削る日々が始まった。

猛暑の8月、残暑厳しい9月、そして一気に秋が深まる10月に渡って、実行委員会は準備を進めた。彼らの活動場所として長谷川の自宅とともに結婚したばかりの奈良の秋田市仁井田の自宅も使われた。そして、彼らは、「瞑想の回転軸」というサブタイトルが付された「大捜査線2」の開催日、11月7日・日曜日を迎えた。幸運にも快晴だったが、最低気温2.5度という寒い日だった。冷え込む朝、セリオンプラザの捜査本部には前回の倍に当たる約450人の捜査員が集結していた。捜査員たちは、捜査会議で「秋田市警察本部」の幹部から次のような事件の状況説明を受けた。
秋田市内でも有数の名家、天王寺家の32歳の息子・雄大が誘拐された。犯人の指示に従い身代金1億円を持って一つ森公園に向かった父親の会社社長・天王寺雄蔵も1億円とともに消息を絶った。

「雄蔵氏の足どりを洗い、天王寺親子の保護を最優先にして、被疑者の確保に全力を挙げてくれ。」
寺崎本部長からの号令を受けた捜査員たちは、冬を思わせる北風の中、コートに身を固めて秋田市街全域へ散って行った。
前回の大捜査線の「携帯電話」に代わり、大捜査線2ではコミュニティFM放送を8時間独占して捜査本部と捜査班との情報連絡ツールに使用した。そして午後4時、捜査班の一つが事件の首謀者を逮捕し、リアルロールプレイングゲーム「大捜査線2」は成功裏に終了した。450名の捜査員たちの姿が消えたセリオンプラザで、実行委員会メンバーは前回を上回る疲労と深い達成感、満足感を噛みしめていた。

ただし、彼らに一息ついている余裕はなかった。「大捜査線2」開催日の2週間後には井崎義治の来秋が設定されていた。したがって、トトカルチョマッチョマンズの中でも長谷川たち「ゆうわタウン創造プランナーズ」のメンバーは、大捜査線の準備・運営と並行して井崎来訪の準備を進めなければならなかった。詳細スケジュールの決定、井崎の宿泊施設や移動手段の手配、プランナーズとの勉強会および講演会のテーマの選定、必要な物や資料の手配など、準備内容は多岐に渡った。11月21日に予定された井崎の講演会は一般の聴衆も対象とすることにしたため、そのチラシ作成も必要だった。大捜査線2に続く大きなイベントの準備にメンバーは忙殺された。

11月20日・土曜日、青空も見え、冬を間近にした時期としては穏やかな日だった。昼前、エース総合研究所主席研究員、井崎義治の搭乗する旅客機が秋田空港に着陸した。井崎は空港で長谷川敦の出迎えを受け、雄和町・社会教育課の浦山が緊張しながら運転する自動車で昼食場所のヴィラフローラへ向かった。

井崎が車の窓から見る風景は、アスファルトとコンクリートが地面を覆いビルが林立する東京とはかけ離れていた。秋田空港も、そこから続く道路もすべてが草や木々そして森林に包まれていた。すでに紅葉も盛りを過ぎていたが、針葉樹の森は緑が濃かった。空港のある丘陵から道を下ると、左側に並行して流れる大きな河川が見えた。雄物川だった。無機質な表情を見せる都会の風景に比べ、ここでは自然が圧倒的に大きな存在だった。
その風景には、東京との際だった相違がもう一つあった。それは視界に入る人間の数だった。どこも人が溢れている東京に対して、ここでは大きな自然の中に隠れているように人の姿が見えない。井崎にはゆったりと感じられる風景にも、この土地に住む長谷川敦は別のものを感じているのだろう。井崎は、イーストベガス構想の資料を読んで感じた人口減少に対する長谷川たちの危機感を思い出した。

小さな丘の上にあるレストラン、ヴィラフローラで昼食の稲庭うどんを摂った後、改善センターに移動した井崎は、長谷川敦にプランナーズメンバーたちを紹介され、翌日の講演会場を下見した。
その後、井崎や長谷川たちは再び浦山の運転する自動車に乗り、雄和町および隣接する秋田市、河辺町、協和町を回った。長谷川が井崎に見せたかったのは、県庁所在地である秋田市の姿、そしてイーストベガスの立地候補地の状況だった。
秋田市で長谷川は、トトカルチョマッチョマンズ結成式の花見を行った千秋公園や、ガラスドアに「直訴状」を貼り付けた県庁がある官庁街などを案内した。秋田駅の東口方面に移動した時は、秋田自動車道の秋田中央ICに接続する道路が整備され、人口が増えているその地区の状況について、井崎は「都市は山側に向かって発展する」という言葉で説明した。その言葉一つとっても、井崎が東京からはるばる秋田まで来てくれたことの意味を物語っていた。長谷川は、都市計画の専門家と一緒に地元の視察をしていることに興奮していた。

第1日目の夜、トトカルチョマッチョマンズたちは進藤岳史が経営する秋田市山王の酒場・デルワナワンガーで井崎との懇親会を開いた。決して広いとは言えない店内は20人くらいの参加者でいっぱいになった。
東京から遠路来秋した井崎を迎え、浦山や長谷川たちは始めのうち緊張していたが、両者はすぐに打ち解けた。46歳の井崎義治は年齢以上に若く見え、都会的なスマートな物腰ではあったが約20歳も離れたトトカルチョマッチョマンズたちに対してもまったく偉ぶる所がなかった。その夜、井崎は饒舌だった。イーストベガス構想に対する自分の見解について、秋田という地域の状況について情熱的に話し続け、夜遅くまで長谷川たちに付き合った。

第2日目の午前、プランナーズは井崎を交えて雄和町・改善センターで勉強会を開催した。この場では、プランナーズが現在自分たちが作成しているイーストベガス構想を井崎に説明した。
昼食を挟んで午後2時からは、改善センターのホールで井崎の講演会が開かれた。講演会には「元気でおもしろい秋田・雄和の創造に向けて」というタイトル、「発展する地域の条件を超えて」というサブタイトルが付されていた。

プランナーズ以外の一般の人も含む聴衆に対し、井崎は最初に地域が発展する条件について話し始めた。
井崎は、地域発展の条件として5つの要素を挙げた。その5つとは、自然条件に恵まれていること、仕事すなわち雇用があること、人、モノ、情報といったインフラが揃っていること、地域イメージが良いこと、財政状況が良いことだった。地域イメージを形作るのは、その地域から外部に発信される情報の量そして質であり、自治体の財政状況は提供される行政サービスの量や質に影響することが説明された。例えば、財政状況が良好な地域は子育てや住居確保に対するサービスも手厚くすることができ、結果として子どもを産み育てるのに良い環境を形成し、それを住民増加に繋げることができる。

続いて、アメリカで都市政策に携わったキャリアを持つ井崎は、発展しているいくつかのアメリカの都市を紹介した。
その1つ、テキサス州サンアントニオでは川沿いに8㎞に渡って遊歩道「リバーウォーク」が整備され、その美しい景観からアメリカのベニスと呼ばれている。リバーウォークのある地域を中心に商業施設やレストラン、コンベンションセンター、ホテルが集積し、人を引きつける街並みが形作られている。サンアントニオはその街並みの魅力によって年間1千万人を超える観光客を集めていることが述べられた。

「ラスベガスの挑戦」の著者である井崎は、当然ながら世界最大のエンターテイメントシティ、ラスベガスにも言及した。特に、ラスベガスがマフィアによるカジノタウンから、マフィアを排除しエンターテイメントの要素を振興することにより、世界有数のリゾートの街となった歴史について詳しく説明した。

講演の論点は、次第に「ゆうわタウン創造プランナーズ」がまちづくり構想を作るヒントに移っていった。井崎は「面白い秋田・雄和」を創造するためには、国の政策を鵜呑みにすることなく、地域の独自性を大切にすることが必要だと説いた。そして「5人のバカ」の話をした。何か事を成すには5人のバカがいればできるという含意であり、元気で面白い街を創造する場合にも、「5人のバカ」、すなわち、ロマンや夢、創造性を持った人たちがいることが何よりも重要だと話した。

講演の最後で、井崎は若者たちが新しいことに挑戦する地域活動を行う際には、行政もそれを支援する仕組みを作ることが必要だと説いた。地域活動のリーダーには、ビジョンを持ち経営感覚のあることが求められ、リーダーの周りの人は、自分が気がついたこと、自分に出来ることをやることが重要だと話した。
井崎の講演を聞いて、長谷川やプランナーズたちは自分たちの背中を力強く押されたように感じていた。
プランナーズたちは時間を惜しんだ。講演会終了後の夜、彼らは井崎と共に秋田市川反の飲食ビル3階にある「ふるさと塾」へ移動し、勉強会の続きを行った。

3日目、11月22日・月曜日、プランナーズたちは丸一日を井崎との勉強会に当てた。都市計画の専門家を自分たちのために独占できるというチャンスを得て、プランナーズは貪欲だった。彼らは秋田まで来てくれた井崎から得られる限りの知識、情報を引き出そうとした。

プランナーズ対する井崎のアドバイスは、どれも非常に具体的だった。
井崎は来秋する前に、長谷川に対して雄和町内の航空写真を準備しておいて欲しいという要望を伝え、長谷川は浦山に頼んでその航空写真を準備してもらっていた。プランナーズはこの時、イーストベガス立地場所として雄和町内に3つの候補地を考えていたが、井崎は航空写真を見ながら各候補地の優劣を説明した。

井崎が述べたイーストベガスの立地場所の条件は次のようなものだった。第1に、カジノを含むリゾート地域は、大都市から隔離しているか、または住民が居住する日常生活圏とは隔離されていることが必要である。第2に、他地域からの既存の交通アクセスを活用できることが必要である。そして、ラスベガスでは1つのホテルで10ヘクタールから20ヘクタールの敷地面積があり、イーストベガスを建設する場合、全体では120から130ヘクタールの面積が必要だと説明した。
井崎は、これらの条件に基づき三つの候補地の中から1つを推した。彼は航空写真を見ながら言った。
「雄和町の中では、ここがいいですね。」
そこは、秋田空港のある丘陵から雄和町中心部方向に道を下った地点から見て、雄物川の対岸にある場所であり、蛇行する雄物川によって三方が囲まれ半島のような地形になった地域だった。

プランナーズは井崎のレクチャーを受けて気持ちが高揚していた。自分たちの要請に応じて秋田を訪れた井崎は非常に聡明で、どんな質問に対しても理路整然と語った。それでいて、夜遅くまで酒飲みにも付き合ってくれる気安さと情熱的な面を持っていた。
プランナーズたちは、親身になって語る井崎の具体的で詳細なレクチャーを聴きながら、遥か遠い所にあると思っていたイーストベガス構想の実現が一気に近づいたように感じていた。

一方の井崎は、何の権力も持っていない若者たちが自分たちが住む地域を衰退から救おうと純粋な気持ちで真摯に行動していることに感銘を受けていた。その行動は夢を追うというより、目標を実現するための地道で具体的な努力であり、自然に応援したくなるものを持っていた。グループの中心になって行動している長谷川敦に対しては、「純粋で熱く、カッコつけないリーダー」という印象を持った。
そして、地域活性化のためにカジノを設置するのであれば、「お台場カジノ構想」を唱えている東京のような大都市ではなく、秋田のように他に手段が乏しい地域こそ必要性、必然性があると改めて実感していた。

その日の昼食では、伊藤町長を交えて懇談の席が設けられた。その席で伊藤町長は、雄和町のまちづくり計画を支援するために東京から来てくれた井崎の労をねぎらい、プランナーズたちの活動に対しては「このまま進めてほしい」と全面的に肯定する発言をした。
井崎来訪の準備が大捜査線2の準備・運営と重なり、連日徹夜に近い日々を送っていたプランナーズにとって町長の言葉は心を揺すぶられるものだった。奈良真の妻、美香子は伊藤町長の言葉を聞いて涙した。

プランナーズたちは、町長との懇談会の後も井崎の出発時刻ぎりぎりまで勉強会を続け、
目下取り組んでいる主要テーマ、イーストベガスによる経済効果を算出する方法について、井崎のアドバイスを受けた。

濃密な時間はあっという間に過ぎ去った。井崎が帰る飛行機の出発時間が迫り、プランナーズは全員で井崎を秋田空港まで見送りに行った。空港はすでに夕闇に包まれていた。長谷川たちは、空港ロビーで井崎を囲んで記念写真を撮り、遠くから来てくれた客人に別れを告げた。
浦山や長谷川たちが見守る中、井崎義治が搭乗した旅客機は滑走路を離陸した。夜空を上昇して行く飛行機の機内で、井崎は一つの説話を思い起こした。

「愚公、山を移す」
昔、中国に九十歳近い「愚公」という老人がいた。老人の家の前には二つの山が立ちはだかり、人々は山の向こうへ行くのに難儀していた。愚公は家族と話し合い、人々の苦労を取り除くため二つの山を他へ移すことにした。愚公ら家族は、カゴを背負い鋤を使って山の土と石を海に運ぶ作業を始めた。それを見た知者とされる男は、「おまえのような老人が大きな二つの山を動かせるはずがないだろう」と笑った。しかし、愚公は「私が死んでも、息子、孫、さらにその子孫が続ければ、いつかは絶対山を移せる」と答えた。雨の日も風の日もたゆまず作業を続ける愚公らの姿に、万物を支配する神「天帝」は感動し、二人の神仙を人間界に派遣して山を他のところへ移させた。

井崎は考えていた。
秋田にラスベガスを作ろうとする長谷川敦と仲間たちの活動は、傍目には人の手で山を移すことにも似た無謀な挑戦に映っているかも知れない。確かに、彼らの行く手には二つの高い障壁が立ちはだかっている。一つはカジノを合法化する法律の成立であり、二つ目はカジノが合法化された場合の秋田での実現である。だが、彼らはゴールまでの道程をきちんと見極め、一歩一歩着実に進もうとしている。あの純粋で真摯な若者たちなら不可能を可能にするかも知れない。
井崎義治は、長谷川敦が「秋田の愚公」になって欲しいと願った。