雄和町・夢広場21塾ヤング部会が3年間の活動を「雄和町への提言書」に結実させて終息した今、長谷川敦は次の活動の舞台を求めていた。
彼にとってヤング部会はイーストベガス構想実現に向かう道程の一里塚に過ぎなかった。部会員たちが苦労の末に構想を形にした「雄和町への提言書」も、長谷川には「概論」と位置付けられるものだった。彼は、さらに具体的な街づくりの設計図を作るつもりだった。
長谷川には急ぐ理由があった。石原都知事が「お台場カジノ構想」を政策として掲げた以上、同じ「カジノを核としたまちづくり構想」であるイーストベガス構想が後れを取る訳にはいかない。長谷川には自負があった。石原の構想が世に出る3年前、日本で誰よりも早くカジノを核にした街づくりを主張したのは自分だと考えていた。そしてイーストベガス構想が単なる夢でなく、秋田を変えるという目的のために実現すべきプロジェクトである以上、そのプロジェクトを着実に前に進めなければならなかった。
長谷川がヤング部会に代わる舞台を求めた理由は他にもあった。自分たちに活動の場所を与え、ラスベガス視察研修に送り出してくれたヤング部会ではあったが、イーストベガス構想を進める舞台としては制約が多かった。夢広場21塾は3つの部会で活動しており、ヤング部会は他の部会と歩調を合わせる必要上、思い通りに活動できないことがあった。
さらに大きいのは、メンバーに関する制約だった。ヤング部会の部会員は雄和町民に限定されていたが、長谷川はイーストベガス構想の推進に安田琢や奈良真など高校時代の友人たちを参加させたかった。そのメンバーは、トトカルチョマッチョマンズの中で、イーストベガス構想のプランニング部隊となるはずだった。
長谷川は、ヤング部会で活動している時から雄和町・教育委員会の浦山勇人に「雄和町民以外も参加できる活動の場所が欲しい」と訴えていた。
その要望は、雄和町長の伊藤憲一にも直接伝えていた。浦山から「俺を飛び越して動くな」と牽制されながらも、長谷川は時々アポを取って町長室に行き伊藤町長にいろいろな話をしていた。そんな時、町長は概して好意的に話を聞いてくれた。若い頃に青年会活動に打ち込んだ経験を持つ伊藤町長は、長谷川のように熱意を持って活動する若者にシンパシーを持っていたのだ。
夢広場21塾事業の終了が決まった時、浦山は長谷川たちヤング部会の部会員たちに言った。
「ヤング部会は平成10年度で終わりとなるけど、お前たちは活動を続けていいから。」
その言葉を受けて長谷川は言った。
「浦山さん、3年前サラダ館で約束したことを覚えてるすか。浦山さんは『具体的なまちづくりの構想をつくろう』と言いました。『そのために一緒にタッグを組もう』と。イーストベガス構想はまだ道半ばです。構想をもっと具体化するための活動場所をください。」
長谷川は言葉を続けた。
「もう一つ、ヤング部会は雄和町民しか参加できませんでしたが、今度は他の市町村の人も参加させてください。秋田市や他の所からトトカルチョマッチョマンズの強力な才能を連れてきます。」
長谷川は浦山に言いながらも、それが難しいことを承知していた。どんな形にせよ雄和町が町の予算を使って行う以上、それは雄和町民のための事業でなければならなかった。とすれば、活動を許されるのはヤング部会のように雄和町民に限られるのが必然の帰結と思えた。それでも長谷川には、雄和町民ではない安田琢や奈良真たちを参加させる必要があった。彼は言った。
「なんとか頼みます。」
長谷川敦の言葉を聞きながら、浦山はすでにその願いを実現する方法を捜していた。利用できそうな町の事業、自分が持っている権限、町の行政機構の中で誰がどんな権限や実質的な力を握っているか、それらの考えが頭の中を巡っていた。「町外の人間を参加させる」という長谷川の困難に思える要望も、浦山は実現するつもりだった。
全ては、あゆかわのぼるの講演に長谷川敦を誘った時に始まった。友達を連れて講演に参加した長谷川を見込んでヤング部会に引き込んだ浦山には、「若い町民の意見を町政に反映させたい」という目的があった。その目的は予想を超えて達成された。「ラスベガスを手本とするまちづくり構想作成」という目標を設定したヤング部会は、ラスベガスへの視察研修を自分たちだけで遂行し、その成果を約200ページに及ぶ提言書として完成させた。それだけではない。レディースフォーラムでは約50人が参加するパーティーの企画・運営を成功させた。さらに、秋田県経済界の大物、三浦廣巳の講演を自分たちで企画、実行し、「アキタエリア・ヤング《夢》交流」などのイベントでは長谷川が大勢の町民の前でイーストベガス構想を発表した。そして伊藤憲一町長のこれまでの反応からみて、「イーストベガス構想」は単なる勉強会の成果発表に終わらず、現実の町政を動かす可能性があった。
その上、サラダ館合意に言及されると、浦山には長谷川の要求を拒む理由がなかった。
浦山は、長谷川に答えて言った。
「任せてくれ。サラダ館でのことは忘れていない。」
浦山はその言葉を違えなかった。雄和町教育委員会の平成11年度事業として文部省補助事業、「青年活動活性化事業」が実施された。これは地域の青年を対象に、主体性を持って地域社会を創造できる人材育成を図ることをねらいとする事業だった。浦山はこの事業の一環として、長谷川たちがイーストベガス構想を具体化する舞台を作った。長谷川の要望通り、その活動には雄和町民以外も参加可能だった。浦山勇人はこの活動舞台を「ゆうわタウン創造プランナーズ」と名付けた。
長谷川は「ゆうわタウン創造プランナーズ」をトトカルチョマッチョマンズのイーストベガス構想プランニング部隊と位置付け、参加メンバーを集結させた。まず、夢広場21塾ヤング部会の部会員、伊藤敬、鈴木美咲、斎藤美奈子らは引き続き「プランナーズ」に参加した。ただし、ヤング部会に参加していた渡辺美樹子は、秋田市から車で1時間以上の距離がある能代市の学校に転勤となったため、加入を見送った。
また、トトカルチョマッチョマンズの主要メンバーとして活動していた伊藤次郎もプランナーズに参加した。
そして、秋田高校時代の友人グループ、安田琢、奈良真が満を持して参加した。琢はこの年の4月に偶然にも渡辺美樹子と同様に能代市に転勤となったが、ゆうわタウン創造プランナーズには絶対欠かせない人材だった。
この時もう一人、長谷川や琢の高校時代の友人、渡部巌(わたなべがん)も新しく仲間に加わった。巌は高校時代、軟式テニス部で琢とチームメイトであり、1、2年の時はクラスも同じだった。高校時代、奈良や進藤岳史とも交流があったが、長谷川敦とは直接の付き合いはなく、長谷川に対し「雄和出身のヤンキーグループの元締め」というイメージを持っていた。巌は、琢や奈良が大学卒業時にラスベガスへ旅行した際に加わりラスベガスを体験していた。
巌は琢や奈良から2年遅れて1999年3月に大学を卒業して秋田に戻り、4月にJA秋田経済連の設計事務所に就職した。秋田へ戻ってからの飲み仲間は自然と高校時代の友人、琢や奈良たちとなった。琢からイーストベガス構想の話を聞いた巌は、一緒にラスベガスという都市を体験していたこともあって「面白い」と思った。
奈良真はその年の5月、あゆかわのぼるの仲人で結婚した。妻となった美香子は、奈良真の勤務する住宅メーカーの先輩社員であり、奈良が入社した時の新人研修の担当だった。
結婚を控えたある夜、奈良と美香子は、長谷川や琢と一緒に飲んだ。長谷川と琢は誰に対してもそうであるように、美香子に対してもイーストベガス構想のことを熱く語った。美香子には、始めは長谷川たちの話は現実味のない話としか思えなかったが、飲み会が終わる頃には、美香子もイーストベガス構想の実現に向けて奈良真と一緒にやっていく話がまとまっていた。こうして、新婚の奈良真、美香子夫妻は揃って「ゆうわタウン創造プランナーズ」に参加した。
平成11年度がスタートして2か月後の1999年6月1日・火曜日、午後7時30分、雄和町農村環境改善センターで「ゆうわタウン創造プランナーズ」の開講式とオリエンテーションが行われた。雄和町から教育委員会の浦山勇人と伊藤洋文課長が、プランナーズのメンバーとして長谷川たち8人が参加した。
この開講式を皮切りに、長谷川敦たちメンバーは月に1回から3回のペースで会議を持った。会議は基本的に平日の午後7時30分から行われ、長谷川たちメンバーはそれぞれの仕事を終えてから雄和町の改善センターに集まった。琢は秋田魁新報社・能代支局での勤務を終えてから車で約1時間半をかけて雄和町までやってきた。
ゆうわタウン創造プランナーズの使命は、夢広場21塾ヤング部会の「雄和町への提言書」を基礎として、さらに具体的、詳細な理想都市・イーストベガスの計画を作成することだった。
6月17日・木曜日の第2回会議でプランナーズは、基本的な方向性を確認した。彼らは事業の目的を、雄和町の活性化のために「本質的な魅力を中心とした強烈な求心力のある理想の町づくり」を行う事と定義づけた。
そのための具体的な活動内容は、大きく分けて二つの部分から成り立っていた。第一は都市計画に関する部分であり、「理想の町・イーストベガス」を実際の秋田県の中での地理的位置を定め、町の「コンテンツ=構成要素」を選定し、町の中で各コンテンツの区分けを行うという内容だった。第二は、イーストベガス建設による地域への効果推計の部分であり、各コンテンツの集客力を推定し、それによる収入、経済効果、税収をシミュレーションするという内容であった。
プランナーズが活動を開始した後で、新しいメンバーが加わった。秋田放送の能代支局に勤める伊藤修身(いとうおさみ)だった。
修身の勤務先、秋田放送能代支局は安田琢の勤務先、秋田魁新報社の能代支局と同じ建物内にあった。修身は秋田高校で、琢の2年後輩だった。したがって琢が高校3年生の時、修身は1年生で同じ校舎で学んでいたことになるが、高校球児として部活に打ち込んでいた修身には安田琢との接点がなく、初めて話をしたのは能代支局で出会ってからだった。
二人は年齢が近く高校の先輩後輩という関係でもあり、お互いの勤務が終わってから一緒に飲む仲になった。そのうちに修身は、琢が勤務を終えた夕方、時々秋田市方面へ出かけて行くのに気づいた。そんな時の琢は、修身の目には楽しそうに出かけて行き、楽しそうに帰って来るように映った。
ある夜、能代市の居酒屋で一緒に飲んでいる時、修身は琢に聞いた。
「琢さん、時々、仕事が終わってから秋田に行ってるみたいですけど、何をしに行ってるんですか」
修身の問いに答えて、琢はラスベガスの話を始めた。
「修身、雪深い秋田はこのままでは高齢化、人口減少が進行して、その結果として衰退していく。その秋田の対極にあるのがラスベガスなんだ。修身はラスベガスって行ったことある?ないよな。俺は大学を卒業する時に友達3人で行ったんだけど、ラスベガスは住んでいる人だけで百万都市だけど、さらに世界中から何千万人という観光客が集まって来てるんだ。人が減っていく秋田に対して、ラスベガスにはあれだけ多くの人が集まる。でも、もともとラスベガスは砂漠だった所に出来た街なんだよ。『バグジー』っていう一人のギャングがカジノホテルを作って、そのホテルが2つ、3つと増え、街がどんどん大きくなっていって今の百万都市になった。だから俺たちにも出来る。秋田に雪が降るなんて関係ないんだ。」
修身は話が予想外のラスベガスに向かっていったことに困惑しながら聞き返した。
「琢さん、俺たちにも出来るって、何が出来るんですか」
琢は答えた。
「俺は秋田を楽しくしたい。自分たちでこの秋田を変えていこうと思ってる。今、雄和町の事業で、将来の秋田のビジョンを考える作業をしているんだ。そのビジョンっていうのは、世界中から人が集まるラスベガスを手本にしたまちづくりなんだよ。」
「時々琢さんが出かけて行っているのは、その雄和町の事業なんですか。」
「んだ。まちづくりのビジョンを作って、それを政治家、つまり雄和町の事業だから雄和町長だけど、町長にプレゼンするのが今年度の目標なんだ。そのために俺の高校の時の友達とか、10人くらいで雄和に集まってラスベガスを手本に町のプランニングをしてるんだ。」
琢は続けた。
「俺たちが考えている理想の街は『イーストベガス』っていうんだ。東洋のラスベガスという意味だよ。他の誰かじゃない、自分たちで未来を作っていくんだ。修身、俺たちの未来は明るいんだよ。」
修身の知っている琢は、いつも楽しそうだった。仕事の時も飲んでいる時も快活で明るく振る舞い、明るく話した。修身は思った。琢さんが未来は明るいと言うからには、きっと明るいんだろうな。修身は思わず口に出した。
「琢さん、自分も加わりたいです。」
琢は、次のプランナーズ会議に修身を連れて行き、メンバーに加えた。
ゆうわタウン創造プランナーズは、理想の町が持つべきコンテンツごとに担当を割り振った。彼らが設定した主なコンテンツは、ギャンブル(カジノ)、アミューズメント(遊園地、ゲームセンター)、ショッピング、コンベンション(会議、展示会)、ショービジネス(ステージショー、プロ野球などの観るスポーツ)、食(レストラン)、スポーツ(客が自ら行うスポーツ)、健康(温泉、フィットネス)、そして風俗だった。
彼らの「本質的な魅力」を備える町とは、普遍的な欲求を肯定し、それを禁じることではなくコントロールすることにより応じる町だった。そこには、風俗というコンテンツも必要だと考えられた。
各コンテンツの担当は、ギャンブルが長谷川、敬、アミューズメントが美咲、美奈子、奈良美香子、ショッピングが奈良真、修身、スポーツが長谷川、敬、健康が奈良真、奈良美香子などだった。
プランナーズメンバーは、自分の担当するコンテンツについて対象マーケットを想定し、施設の内容、規模を考え、施設稼働による集客数、売上高を推計した。プランナーズ発足に当たって長谷川が切望し実現した点、すなわち雄和町民以外のメンバーも加入させた事は、長谷川の予想以上に大きな効果をもたらした。琢、奈良、巌など高校時代の友人グループ、そして新加入の修身は町づくりのプランニングに力を存分に発揮した。ヤング部会の活動成果という土台があり、プランナーズとして取り組むべき課題が明確になっていることもあり、手探り状態で進まざるを得なかったヤング部会と比べて、ゆうわタウン創造プランナーズの取り組む作業は格段の速さで進捗した。
伊藤修身は新入りかつ最年少であり、他のメンバーから言われた課題に素直に取り組んだ。彼はショッピング以外に、琢と一緒に風俗も担当することになった。
修身はゆうわタウン創造プランナーズに参加して、メンバーに浮ついた感じが微塵もなく本気で自分の課題に当たっている態度に少し驚いていた。他のメンバー同様に、彼も雄和町での会議と次の会議の間には、自分で資料を検索し、調べ、数字を考え文章をまとめる作業を行った。
生真面目な性格の彼は、自分の課題に愚直にぶつかって行った。「風俗」というコンテンツに関しても、他のコンテンツと同じように集客数、売上規模の推計を行った。彼はその際、店の数などに関して風俗で有名な中部地方の金津園という地区をモデルにした。さらにネットで参考資料を探し、売上高推計に関して次の数式を得た。
ある店への来客数=女の子の人数×営業時間/プレイ時間×稼働率
売上高=来客数×プレイ料金
修身は担当する「風俗」というコンテンツに関し、この数式を基に自分で来客数や売上高を推計したが、それだけでは満足しなかった。自分が算出した推計値の妥当性を確認したいと考えた。彼はネットで番号を調べ、金津園にある一軒のソープランドに電話をかけた。電話に出た店員に彼は話した。
「私はまちづくりの研究を行っている伊藤と申します。あの、突然で恐縮ですが、まちづくり研究の参考のために教えていただきたいのですが、お宅のお店の一日あたりの来客数と売上高はどれくらいでしょうか。」
数秒の沈黙の後、電話の向こうから怒鳴り声が返ってきた。
「お前は何者だ。なんでそんなことを聞くんだ。」
直後に電話はガチャンと切れた。