特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第8章「前進」 3.視察研修

1996年4月に長谷川敦が浦山からの誘いに応じて、夢広場21塾ヤング部会に仲間と結集した動機の一つ、それも重要な一つに「行政の力を利用して仲間をラスベガスに連れて行こう」という意図があった。
当然、長谷川はヤング部会の活動開始当初から、浦山に対して雄和町の制度を利用してラスベガスに視察に行かせてほしいという希望を何度も伝えていた。

ラスベガス視察に限らず、長谷川は浦山に対していろんな要求をした。いわく、誰それを呼んで勉強会や講演会をしたい、伊藤町長と直接話す機会を作ってほしい、雄和町の行政施策にイーストベガス構想を取り入れて欲しい。そんな時、役場内部の力関係や行政手続きなどお構いなしに、長谷川は浦山に言った。
「あなたが首を縦に振れば済む話でしょう。」

浦山は自分に突きつけられるそんな要求を持て余しながらも、1996年6月のサラダ館合意以来、長谷川たちの希望にはできる限り応えようとした。ただし、ラスベガス視察だけは別だった。浦山はその希望を右から左へと聞き流した。とても現実性のある話とは思えなかったからだ。
行政が関与する海外研修は、視察先や目的、効果が問われる。その種の研修は、産業や行政の成功事例の視察というのが通例だった。マフィアとギャンブルの街、それがラスベガスに対する一般的なイメージであり、とても公金を使って町民をその街に行かせる理屈が成り立つとは考えられなかった。

しかし、その年度の下期、すわなち1996年10月を過ぎた頃、長谷川たちヤング部会メンバーにとって幸運な巡り合わせが訪れようとしていた。

最初に、浦山の考えが次第に変わってきた。ヤング部会メンバーと活動を共にするうちに、長谷川のラスベガスを視察したいという希望が、遊びに行きたいという気持ちからではなく、本当に街づくりの手本としてラスベガスから学びたいという目的から出たものだと理解できるようになった。それと同時に、出来れば長谷川の希望を実現させてやりたいと思うようになっていった。さらに、その思いを後押しするような動きが町役場の中で起こった。

発端は、夢広場21塾の国際交流部会だった。夢広場21塾には、ヤング部会の他に教育福祉部会と国際交流部会があった。国際交流部会は、部会名のとおり町民が国際交流について学習し町政への提言を行う部会だった。その部会に参加する町民から、海外への視察研修に行かせて欲しいという声が上がった。視察の目的地は、雄和町が姉妹都市提携を結ぶアメリカ・ミネソタ州セントクラウド市だった。国際交流を目的とする部会としては当然と言える要望であり、目的地も理にかなっていた。

海外研修に行かせて欲しいという要望は、夢広場21塾全体の声として町長にも伝えられた。伊藤憲一町長は、それを正当な要望と見なし町役場に対して予算化を指示した。こうして、国際交流部会だけでなく教育福祉部会、ヤング部会も含む夢広場21塾全体について、海外への視察研修の際に町が費用の二分の一を補助する制度が町の事業として組み立てられた。この事業を含む平成9年度(1997年度)の雄和町の予算案は、町議会で審議され可決された。

予算が成立したということは、平成9年度(1997年度)に雄和町の事業としてヤング部会がラスベガスを視察できることを意味していた。その知らせを聞いて長谷川の気持ちは昂ぶった。
「ようやく仲間たちをラスベガスに連れて行ける。」
イーストベガス構想をヤング部会の仲間たちに理解してもらうには、実際のラスベガスを体験させることが不可欠だった。しかし、高揚した気持ちの反面、長谷川は仲間をラスベガスに連れて行くことの責任も感じていた。雄和町の金を使って行く以上、それはもちろん遊びではなくラスベガスを手本とする街づくりのための視察であり、一つの事業だ。事業であるからには、きちんと成果を出す必要がある。

ヤング部会は、1997年4月以降、ラスベガス視察の具体的な準備を開始した。はるか遠い希望だったラスベガス視察が実現することになり、長谷川たちの活動は熱を帯びた。
まずスケジュールを確定させる必要があった。メンバーたちは話し合い、視察の日程を1997年の8月、お盆の時期に決めた。その時期は、お盆休みを使う観光客が集中する海外旅行のピークであり、ツアー価格も高騰する。しかし、それぞれ勤め先を持つヤング部会のメンバーが揃ってまとまった日数の休暇を取ることができるのはお盆の時期以外にはなかった。

ヤング部会のメンバーは自分たちで旅行エージェントと相談しながら旅行の日程を考えた。最終的に日程は、8月9日・土曜日から8月15日・金曜日までの7日間と決定した。ハイシーズンであるその時期、旅行費用は一人40万円と算定された。そのうち半額は雄和町の事業として補助されることになる。半額とは言え、一人20万円の出費は社会人になりたてのメンバーにとって決して安いものではない。ただし、念願のラスベガス視察が実現する以上、そんな事を言っている状況ではなかった。

次に、ヤング部会はラスベガス視察研修の目的を次のように再確認した。
ラスベガスは何もない砂漠に人間が作った都市であり、エンターテインメントにより成長、成熟し百万都市となった。つまりラスベガスは「魅力」によって出来上がった都市である。この都市を視察の目的地として選んだのは、何もない砂漠だった所に100万人を定住させるに至った「魅力」とは何か、それを確かめるためである。

視察研修の成果をどんな形にするかという点も重要だった。ラスベガスへの旅が雄和町の事業である以上、成果をきちんとした形で提出する必要がある。ヤング部会の活動目的は「ラスベガスを手本にした街づくり構想の作成」である。これから考えて、成果として提出すべきものはラスベガス視察に基づく「まちづくりの提言書」ということになった。
ヤング部会は、提言書の作成を前提に、提言書の構成、項目を考え、各項目ごとの担当者を決めた。例えば、人口・福祉は石井誠、ラスベガス市とネバダ州の行政、ホテル経営は渡辺美樹子、交通・教育などのインフラは鈴木美咲、ギャンブルは伊藤敬といった具合である。長谷川敦は、全体の総括を担当することにした。各メンバーは自分の担当を中心に、事前の資料収集などを始めた。

「ラスベガス視察研修にあたって」という文書も作った。この文書は、視察研修の目的を明確にし、準備行動として何をしなければいけないかをまとめたものだった。その中には「ラスベガスでは寝ないで欲しい・・・ラスベガスは眠らない」という言葉もあった。
また、視察の準備の中には、ルーレット、ブラックジャックなどカジノで行われるゲームのルールの学習も含まれていた。秋田市川反には模擬カジノを体験できる店があり、メンバーたちはそこを出かけて、カジノゲームの練習をした。
こうして、実際にラスベガス視察の準備を進めていくことにより、長谷川以外のメンバーもやっとラスベガスという都市の姿をおぼろげながら知り、イーストベガス構想の意味を理解し始めていた。

しかし、ラスベガス視察研修はすんなりとは実現しなかった。ヤング部会メンバーが視察の準備を進めている頃、社会教育課の浦山は困難に直面していた。
夢広場21塾の各部会が海外視察研修をする際に町が二分の一を補助する事業は予算化されていたが、その予算を使って実際に視察を行うためには役場内でもう一つの手続きが必要だった。浦山は、ヤング部会の海外視察にかかる「実施伺い」という稟議書を起案した。

その稟議書が回付されると、浦山は総務課長に呼ばれた。浦山が出向いて行くと総務課長は言った。
「条例の根拠は何だ。ただ遊びに行くんだべ。」
それは予算を策定した時に説明したはずのことだった。浦山はラスベガス視察研修は決して遊びに行くのではなく街づくりの視察として行くこと、それは雄和町の事業である夢広場21塾の目的に適っていることをもう一度説明しなければならなかった。

総務課長をなんとか説得した浦山は、少し安堵した。総務課長は町役場の中で筆頭課長として大きな権限を持っていた。総務課長の所を通ったからには、稟議は無事決裁されるだろう。次の日、出張の予定があった浦山はそう考えて出張に出かけた。しかし、出張の翌日に役場に出勤した浦山を、予想外の事態が待ち受けていた。
自分の机の上に回付したはずの稟議書が乗っていた。その表面には赤いペンで大きく斜めに線が引かれていた。一体どうしたことかと同じ課の課長補佐に聞くと、助役から戻されたと言う。
浦山が稟議書を持って助役の所に行くと、助役は言った。
「何で行かせるのや。これだば納得できね。(何で行かせるのか。これでは納得できない。)」
浦山は総務課長にしたのと同じ説明を繰り返したが、助役は首を縦に振ろうとせず押し問答になった。これではらちがあかないと考えた浦山は、稟議書を一度自分の席に持ち帰った。
浦山は仕方なく、ラスベガスへの視察研修が雄和町の行政目的にてらして正当なものであるという理屈付けを補強した稟議書を作り直し、もう一度回付した。その稟議は今度はなんとか最終の決裁までたどり着くことが出来た。