長谷川敦は、アメリカ旅行から帰国していた。
ラスベガスからサンフランシスコを経て成田空港に到着し、東京でさらに数日を過ごした後、自宅に戻ったのは昨日の事だ。
長谷川が両親、妹と住む自宅は秋田県の河辺郡雄和町(かわべぐん、ゆうわまち)にあった。山形県に隣接する雄勝町に源を発し、秋田県内陸南部の穀倉地帯を貫いて、秋田市で日本海に注ぐ秋田県最大の河、雄物川(おものがわ)の流域に雄和町はある。河口から雄物川を南へ遡り、秋田市との境界を越えた所が雄和町だ。川沿いの平地には水田が広がり、その周りは出羽丘陵の山々に取り囲まれている。春から秋までの季節は水田の稲の色、山の木々の色で緑に染められる雄和町だが、今は低く垂れ込めた灰色の雲の下、深い雪に覆われて見渡す限り白一色の景色の中にあった。
この町は県庁所在地である秋田市の隣に位置しながら、県内69市町村の中で唯一、国道も鉄道も通っていない自治体だった。しかし、15年前に町内の丘陵地に2,500m滑走路を持つ秋田空港が開港し、一躍県外との交流窓口の役割を担う地域となっていた。
長谷川敦はここで生まれ、そして大学卒業を控えた現在に至るまでここで育った。
長谷川が少年時代の6年間を過ごした小学校は、雄物川を見下ろす丘の上にあった。この小学校は一学年に学級が二つしかない小さな学校なのに、なぜかスポーツが強かった。スポーツクラブは野球、ミニバスケットボール、サッカーの三つしかないのだが、ミニバスケットボールとサッカーは何度も全国大会に出場し、優勝や準優勝を勝ち取ったこともある。しかし、長谷川が所属した野球部は他の二つのスポーツクラブと対照的に、近隣の小学校チームと対戦しては、その度にコールド負けするような弱小チームだった。長谷川敦はその野球部の「4番でエース」であり、生徒会では生徒会長に選ばれた。
小学校を卒業すると長谷川は雄和中学校に進んだ。雄和中学校は町内唯一の中学校であり、町内にある四つの小学校の卒業生が進学する。長谷川は中学校でも生徒会長を務め、野球部では4番でエースだった。しかし、その野球部は小学校の野球部がそうであったように弱小チームだった。
長谷川は、この小中学生の時の経験によって自分の中に「ある気質」が育まれたのだと思っていた。
小学生の時、ミニバスケットボールやサッカーは全国レベルなのに、自分が中心選手として引っぱっている野球部は、地域の中でも弱小のチーム。サッカーやバスケットをやっている友達には体格や腕力では負けていないし、ドッチボールをしても腕相撲をしてもこっちが勝つのに、所属するチームの成績では雲泥の差。中学生になっても、そんな状況は基本的に変わらなかった。
長谷川はその環境の中で悪戦苦闘した。何とか状況を変えようと空しく試行錯誤しては、その全ての試みに失敗していた。その経験の中で、いつしか長谷川は判官びいきの気質を身に付けていた。
プロ野球では巨人よりも阪神、大相撲では貴乃花より舞の海を応援した。「小よく大を制す」「逆転の美学」「やせ蛙負けるな一茶これにあり」…長谷川の胸にしっくり馴染むのはこれらの言葉だった。それはすべて自らが九郎判官だった事に由来している。力は確かにあるはずなのに、華やかな結果には結びつかない。その意識が長谷川をとらえていた。長谷川のその気質は、自然に大都市・東京より自分が生まれ育った秋田を愛する気持ちにつながっていた。
生徒会長にふさわしく成績も良かった長谷川は、中学卒業後、県内有数の進学校・秋田高校に進み、さらにその後、県内唯一の国立大学である秋田大学の教育学部へ進学した。地元の大学に進学したのは、彼の判官びいきが深く関係している。そして、大学4年の講義も全て終了した今、長谷川は卒業式を待つ日々を過ごしていた。
長谷川は自宅の窓の外に広がる雪景色を見ながら、明るい青空の下の乾燥したラスベガスの大地を思い出していた。つい数日前に自分がいた、あの光に満ちた都市の光景と今自分が見ている郷里の風景は遙かに異なっている。それは地理的な隔たりを超えた違いのように思えた。
長谷川がそんな思いにふけっている時、家の電話が鳴った。電話は雄和町役場の職員、浦山勇人(うらやまはやと)からだった。長谷川にとって浦山は中学校の同級生の兄でもあり、教育実習で自分の中学校に来た事もあって旧知の間柄だ。電話に出た長谷川敦に浦山は言った。
「今日はこれから予定ありますか。夕方から町で主催する講演会があるんだけど。」
話を聞くと、雄和町が若者を対象にした講演会を企画したのにあまり参加者が見込めない様子だった。当日になって勧誘の電話をかけてくるくらいだから、ほとんど参加者が来ないという状況を心配しているのだろう。長谷川は浦山の頼みを承諾することにした。この4月からの就職先も決まっている長谷川にとって、3月中は秋田大学の卒業式に出る以外には特に予定がない。
長谷川がその講演会に出ると伝えると、浦山は出来るだけ友人にも声をかけて参加を募って欲しいと頼んだ。
「講演会の後で、講師を交えて飲み会もあるから。」
電話の最後に浦山は付け加えた。