その日の夕方、誘われた講演会に参加するため長谷川敦は自宅を出た。もう3月というのに周りは雪景色であり、すでに暗くなりかかっていた。それでも真冬の頃に比べると夕暮れの時刻は明らかに後ろにずれ、日を追う毎に昼が長くなっていて、北国・秋田にも春が近づいているのが感じられた。
長谷川の目的地は農村環境改善センターだった。普段、町民たちが「改善センター」と呼ぶ3階建ての建物は、雄和町役場に隣接している。講演会はこの改善センターが会場だった。
階段を上がって会場の部屋に着くと、入り口で浦山勇人が出迎えた。部屋の中には参加者用のパイプ椅子が並べられている。長谷川は、そのパイプ椅子の一つに腰を下ろしている伊藤敬(いとうたかし)を見つけた。伊藤敬は、中学時代の同級生であり、長谷川の誘いに乗ってこの講演会へ来たのだ。長谷川は浦山から電話をもらった後、その求めに応じて何人かの友人をこの講演会に誘ってみたが、結局、その中で来たのは伊藤敬ひとりだった。
長谷川は伊藤敬の近くに腰を下ろして開会を待ったが、予定の時刻が近づいても、いっこうに参加者が増える気配がない。パイプ椅子は三分の一も埋まっておらず、部屋の中にいるのは10名ほどに過ぎない。長谷川を含め若者が5~6人、他の年上の大人達は町役場の関係者らしく義理でしかたなく来ているのが見え見えだった。
「これじゃ浦山さんが電話してくる訳だ」
長谷川は思った。
講演開始の時刻となった。浦山が司会に立ち、寂しい人数の参加者たちに講師を紹介した。今日、雄和町の若者たちに講演をするのは、あゆかわのぼるだった。
あゆかわのぼるは、秋田県を舞台に活動する詩人でありエッセイストである。年齢は50代後半で、聴衆のうち長谷川たち若者からすると父親くらいの年代に当たる。その住まいは雄和町の隣町、河辺町(かわべまち)にあった。長谷川はその講師の名を、今日、初めて耳にした。
暖房を効かせた部屋で、雄和町の若者達の前に進み出たあゆかわは口を開いた。窓の外はもう暗くなっていた。
「ただ今ご紹介いただいた、あゆかわのぼるです。」
やや色黒で丸顔のあゆかわは、気のいいお父さんといった風情を漂わせている。しかし、温和な性格を思わせる風貌や朴訥としたしゃべり口とは裏腹に、その言葉は辛辣だった。
講演は県民性の話から始まった。
秋田県人の県民性を評して、よく「ええふりこぎ」「せやみこぎ」「足引っぱり」という言葉が使われる。「ええふりこぎ」は関西弁の「ええかっこしい」に当たる表現であり、見栄っ張りでいい格好をしたがる性質を表す。「せやみこぎ」は面倒くさがりで消極的な性格を、そして「足引っぱり」は、変化を嫌い、何か新しいことを始めようとする人の足を引っぱる性質を意味する。
あゆかわは、冒頭でそんな県民性を示す例を挙げた。それはある大手全国紙の秋田県版に載った話だった。
前年の1995年1月17日に、関西で阪神淡路大震災が起こっていた。その被災地に、秋田県からも多くのボランティアが駆けつけた。その全国紙の秋田支局長はその人々のことを記事にしようと思ったが、そのうち何人かの人から取材を拒否された。その理由は、彼らのボランティア活動に対していくつかのねぎらいの言葉はあったが、その一方で「売名行為」「ええふりこぎ」というバッシングが地域や職場であり、「新聞に載って、これ以上つらい思いはしたくない」ということだったという。
まさに「足引っ張り」を地で行く話だ。この秋田県から遙かに離れた震災被災地まで善意でボランティア活動に行った人たちに向かって、そんな心ない言葉を投げつける人が本当にいたのだろうか。長谷川は信じられない気持ちでその話を聞いた。
次の話は、あゆかわが住んでいる町の「行政改革推進委員」に任命された体験だった。その委員になったのは、自分で名乗り出た訳ではなく町から依頼があったからだ。好奇心の旺盛なあゆかわはそれを引き受けた。
しかし、しょっぱなから驚かされることになった。町からの委嘱状を受け取るセレモニーの場で、突然、職員から名前を呼び捨てにされたのである。あゆかわは一瞬うろたえ、返事をするまで数秒かかってしまった。町長にも役場の職員にも呼び捨てにされるいわれはない。悪いことをした覚えはないし、なにより、そっちで頼みに来たことではないか。「さん」とか「殿」くらいはつけて欲しい。官尊民卑の意識が露骨過ぎるじゃないか。あゆかわはそう思った。
さらに、あゆかわが行政改革推進委員として取り組んだ仕事は、さっぱり「行政の改革」に活かされる気配がなかった。あゆかわたち委員がその仕事をなおざりにした訳ではない。それどころか委員たちが数回の会合で話し合った内容は、かなり具体的なものだった。
能力もやる気もない職員はやめてもらおう。教育行政にメスを入れよう。例えば、どこの市町村でもやっている学校の先生上がりのロートルを教育長の席にすえる、ということはやめられないか。隣接市町村との職員交流をしたらどうか。十二時前に昼食をはじめ、一時になっても席に戻らない職員の処罰、などなど。
それらの意見を基に答申とやらが出されたのだが、その答申がまことに抽象的で、そうとう高度な感性と頭脳を持っていなければ分析できないようにされてしまい、簡単に言えば、すべて骨を抜いたものになった。あゆかわは、そんな骨抜きの結論とすることに最後まで抵抗し、三分の一くらいの委員も頑張ったが、最後は「まぁまぁ」になってしまった。
「こりゃ、まいったなぁ」自分なりに真摯に取り組んだ仕事の結末に、あゆかわはため息をついた。
そんなふうに事なかれ主義で変化を嫌い新しいことに挑戦する気概もない地方自治体が、急にまとまったお金を渡され、自由に使っていいと言われたらどうなるか。秋田県内のあちこちで、そんな出来事が起こっていた。
話は7~8年前にさかのぼる。当時の竹下登首相の発案による「ふるさと創生一億円事業」で全国の市町村に一億円が交付されたが、国はその使い道について関与しないとした。つまり、地方自治体が自ら創意工夫し地域の振興を図るために使ってくださいという事である。降ってわいたような一億円を前に、全国の市町村は本音のところ頭を抱えた。中には、その一億円で金の延べ棒を買って展示したり、お金をさらに増やそうと宝くじを買って結局は大きく減らしてしまったり、首をかしげたくなるような例がいくつも報道された。
この一億円は当然、秋田県内にも交付された。お金の使い道に困った県内の市町村は競って温泉堀りを始め、入浴施設を作った。物珍しさもあってそこそこ繁盛している所もあるが、あゆかわは「十年持てば立派だろう」と冷ややかに見ていた。なにしろ自治体の温泉掘りにはほとんどポリシーがないのだ。ひどい所は「オラホ(うちの所)だけ温泉がなくて格好悪い」というだけの理由で掘った自治体もあった。したがって施設の位置付けも商売のためなのか、福祉施設なのかはっきりしない。しかも、コンセプトの無さを証明しているような無意味、無内容、無国籍で三流のスナックでも付けないような奇妙なネーミングが付けられている。
そんなふうにポリシーもコンセプトもない施設なので、当然、客を見ていない自分中心のサービスになっている。あゆかわが経験した例では、こんな事があった。 その種の自治体温泉で開かれる会合に泊まりがけで参加した時のこと、会合が終わるのが夜9時過ぎだったりすると大浴場が閉まっていて、仕方なくせっかく温泉に来たのに沸かし湯のような小さな風呂で汗を流し寝ることになる。翌朝は、食事前に一風呂浴びようとすると清掃中で二時間ほどは入られないと言われる。ある時は、申し込みの時に「朝早く帰るから朝食は要りません」と言ったら、なんとかの理由で朝食代をいただきますと言われ、しぶしぶ払った事もある。
あんな中途半端な施設が町村ごとに一か所できて、客商売が成り立つはずがない。あゆかわはそういう心配を口にした。
話は、官の姿から民の有り様へ移った。
自治体温泉は武士の商売だからサービスが悪いのかと思えば、秋田では民間も秋田商法なのだ。「秋田商法」とは文字通り秋田の商売の有り様を表す言葉であり、当然ながらと言うべきか、良い意味ではない。店の方があたかも客より優位に立っているかのごとく威張っていて、「売ってやる」といった態度を示す。そんな傾向を表した言葉だった。
あゆかわは自分が体験した実例を話し始めた。
ある会のセミナーに呼ばれて県内の温泉郷にあるホテルに行った時のことだ。あゆかわが自分の出番を終えて部屋に戻ると、電話のベルが鳴った。あわてて電話を取ると、ホテルの従業員からで「車を移動せよ」と言う。なんかありましたか、と聞くと、「バスの邪魔だ」という。とりあえず駐車場へ行き、自分の自動車の駐車位置を見たが、別に変な駐車はしていない。ちゃんと白い太線の中に収まっている。そこへ、ホテルの従業員が飛んできた。
「どうしたんですか」と聞くと、従業員は「バスの洗車の邪魔になる」と答えた。
良く事情が飲み込めないまま、別の駐車スペースに移動したが、どうも納得できない。どこかの何かが欠落している。
あゆかわは考えた。この出来事の間、自分はずっとホテルの従業員に命令、指示されてきた。これは、本当は「お願い」されるべき事柄ではないのか。まず初めに「申し訳ありません」があって、その後に理由の説明があって、移動を「お願い」すべきが一応の筋ではないか。
フロントであゆかわがそう言うと、従業員は初めて「すみません」と言った。カウンターの奥の方にいたホテルの幹部らしい男が、苦虫を噛みつぶしたよう顔をしてじっと自分をにらんでいるのを、あゆかわの眼は見逃さなかった。
秋田の大型観光地はほとんど自分で集客努力をしないらしい。旅行代理店まかせの、団体客相手の商売がほとんどで、それが観光後進県の大きな原因になっているらしいと、どこかで聞いたことがある。その事は、例えばどんな所に現れて来るのか。
その具体例をあゆかわは自ら体験したことになる。この大型観光地の一流と言われるホテルでも、「個人客」などどうでも良かったのだ。旅行代理店が送り込んだ「団体客」と、その客を乗せてきた「バス会社」の方が大切だったという訳なのだ。あゆかわはそう解釈した。
また、時々食べに行く秋田市内のそば屋さんではこんな体験をしていた。
あゆかわは大体、入口近くのカウンターにすわるのだが、着席してから食べ終わって席を立つまでに、背中で「すみません」という客のおわびの声を何度も聞く。 立派なレジがあるのだが、そこに店員のいることはほとんどないので、食べ終わった客は調理場の方に聞こえるようにそう呼ばなければ、そば代を払えないのだ。やがて、あゆかわも「すみません」と言うことになる。ちなみにその店に店員は4、5名いるようだ。
以前は、ある新聞社の支局長から面白い話を聞いたことがある。
その支局長は、秋田に転勤して来て間もなく、電気カミソリの刃がダメになって街の電気屋さんに刃を買いに行ったという。メカに弱いので、刃を取り替えてもらうつもりで愛用の電気カミソリを持って行って「これの刃です」と提示した。
店員は、刃をきちっと包装して渡してくれた。そこで支局長が「取り付けてくれないのですか」と言うと、店員はブスッとした顔で「最初にそう言ってくれればいいのに」と言った。
「お取り替えしましょうか」と最初に一言言えば、すべて解決することである。その支局長は、あゆかわに「秋田って不思議な所ですねぇ」と言って苦笑いした。
そば屋も電気店も、いかにも秋田商法的なエピソードである。社長のレベルか、社員教育がなっていないということだ。中途半端な企業がよく掲げるテーマに「社員教育の充実」がある。しかしトップが勉強しないから社員を生かせないし、従って、目覚めた社員たちが他に移るという事が珍しくない。
若者が秋田に魅力を感じない理由の一つが「働く場所がない」というものである。能力ある戦力によって地域も企業も充実させようとするのなら、そういう若者が仕事にも、地域社会活動にも、遊びにも最大限その能力を発揮できる環境をつくることが必須なのだ。現在の秋田県は口ではいろいろ言っているが、現状は逆をやっている。
企業と企業人が、大学の卒業生を迎え入れるような努力をすれば、県外の大学に出た頭脳も秋田県に戻って来る。何もしなければ、県外に対する「人材の供給県」がさらに充実するだけということになる。就職について超氷河期と言われているが、すぐれた学生はどこにでも働く場所が待っている。いつの時代もこういうものなのだ。努力をしない所や人は、間違いなく見捨てられる。
新聞記事に「本県、一ヶ月給与は全国44位」とあった。また、毎年発表される経済企画庁の「豊かさ指標」で、秋田県は、「遊ぶ・働く」は全国ランク30位、「学ぶ」が36位、「交わる」が46位だった。これを「若者地獄」と言わずに、何と言うべきだろうか。
これははっきり政治、経済の無策を表している。ここに挙げた数字の改善のために、秋田県の政治や秋田県の経済はどんな努力をしたのか。特に、企業経営者たちは。
最後にあゆかわが話したのは秋田県という地域の全体像とでも言うべき話であり、長谷川にとっては特に身につまされる話であった。
給与水準の低さからみても、豊かさ指標の順位からみても、今の秋田県は経済的に遅れた貧しい県であることに間違いはない。しかし、以前からずっとそうだったのか。
実はそうじゃない。秋田は、かつて日本でも有数の豊かな地域だったのだ。江戸時代、阿仁鉱山は日本一の銅の産出量を誇り、日本中から労働者が集まった。あの平賀源内も秋田藩の招きに応じて鉱山技術の指導をするため秋田まで来ていたのだ。20世紀の初めでも、県北の小坂鉱山は銀の生産量が日本一だった。
秋田の山にあるのは鉱山だけじゃない、秋田県の面積の7割を森林が占めるが、秋田杉は木目が美しいうえに材質も強く、県北部の天然秋田杉の森は日本の三大美林に数えられている。この秋田杉を製材して板材を生産した「秋田木材」という会社は、20世紀の初頭に「東洋一の製材工場」と呼ばれた。
そして、山から平地に下りれば米。現在も秋田は米どころとして知られるが、歴史的にもそうだった。太平洋側のお隣の県、岩手が歴史上たびたび冷害に苦しめられたのと対象的に、幸いにして秋田はほとんどその被害を受けなかった。県南部の民謡、生保内節(おぼないぶし)に「吹けや生保内東風(おぼねだし)…吹けば宝風、稲みのる」という歌詞がある。この生保内東風というのは東から奥羽山脈を吹き下ろしてくる風のことで、実は、岩手に太平洋から吹いて冷害をもたらす冷たく湿った山背(やませ)という風と、元をたどれば同じ風なのだ。岩手では冷害の原因となる風が、奥羽山脈を越えて秋田側に吹く時にはフェーン現象で温度が上がり米の豊作をもたらす宝風となる。なんと皮肉なことだろう。
秋田はこんなにも自然環境に恵まれ、恩恵を受けている土地なのだ。しかし、それが逆に今の停滞をもたらす遠因になったとも言える。秋田県人は、鉱物資源や木材、米という一次産品に恵まれた豊かだったことにあぐらをかき、努力を怠った。 米がとれない地域では、それを補うために工夫をせざるを得なかった。例えば、お隣の山形県の山形市はこんにゃく消費量が日本一だけれど、その理由の一つには米があまりとれないから、こんにゃくの加工や料理方法に工夫を凝らしてきたという事があるのだろう。
秋田県人は、土地の豊かさをいいことに自然の恵みがもたらす一時産品を加工して新しい商品を作り出すことや新たな産業を育成することに関して後手に回った。今、そのツケが来ている。
昨年、平成7年(1995年)の4月1日、秋田県の総人口は1,211,368人だった。その前日の3月31日は何人だったか。3月31日の秋田県の総人口は、1,225,868人だった。その差は、14,500人。つまり、一夜にしてこれだけの人間が秋田県からいなくなったのだ。
別に大事故とか、大量殺人事件とか、戦争があったわけではない。新年度の人の入れ替えの結果である。人口が多ければいいというわけではないだろうし、増えれば良いという訳でもない。しかし、この減り方はやっぱり異常だろう。この秋田の地で生まれ育ち、学んできた若者たちが、この地を捨て、別天地に飛び立つということの重大さである。生まれるのが少なくて、来る人がいなくて、出て行く人が多い。最悪のパターンだ。
まもなく3月も終わる。また、3月31日と4月1日の秋田県の総人口が発表される。どんな数字になるのだろう。
あゆかわのぼるは会場の若者たちの顔を見回し、そう問いかけて、講演を終えた。
長谷川敦は、衝撃を受けていた。
あゆかわのぼるが話した県民性についての体験談は、ほとんど目や耳にしたことのない事だった。
身近にいる友人たちは、年齢的にも格好を付けたがるのはある意味当然である。だから「いいふりこぎ」という性格は感覚として分かる。しかし、これまでの友人たちとの付き合いの中では「せやみこぎ」「足引っ張り」と言われる県民性を感じることはなかった。長谷川の周りにいるのは、むしろ誰もやったことのない面白いことを作り出すことに熱意を示す若者たちであり、誰かがそんな新しい事を始めようとする時はみんなで一緒に盛り上がろうとする仲間たちだった。
あゆかわの話からすると、もっと年上の大人達の世界はそうではないらしい。
官も民も、自己の保身や私利私欲に走り、現状に安住して新しいことに挑戦せず、変化を起こそうとするものがいれば妨害する。自分が生まれ育った秋田の人間は、本当にそういう性格なのか。自分が大学を卒業してこれから出て行こうとしている地域の社会はここまで酷いのだろうか。
知人に頼まれたからという軽い気持ちで参加した講演のはずだったのに、それを聴き終えた長谷川は暗澹たる心境になっていた。
長谷川の気持ちをさらに暗くした理由がある。それは講演の最後で語られた、秋田県が「若者地獄」だという内容に繋がりがあった。その部分だけは長谷川も身近な事として理解できたし、痛切に共感することができた。
長谷川の気持ちを一層暗くした理由、それは、自分が今まさに感じている「言いようのないフラストレーション」にあった。