特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第2章「現実」 3.フラストレーション 

幼い頃に家の近所で最初の友達を見つけて以来、長谷川敦にとって友達とはずっと増え続けていくものだった。

母親に手を引かれて保育園に入園すると、そこには見知らぬ子供たちがいた。最初こそとまどいを感じたものの、すぐにその子たちと一緒に遊ぶようになった。川添小学校に入学した時も同じ歳の少年、少女たちとの出会いがあり、一緒に遊び勉強する仲間が増えた。雄和中学校に進んだ時は、小学校で築いた友達関係がそのまま持ち越され、そこに他の三つの小学校、種平小、戸米川小、大正寺小から入学した生徒達も加わって、さらに友達との付き合いが広がった。小学校や中学校のクラブ活動では、野球を通して雄和町以外のライバルチームにも知り合いが出来た。小さい頃からガキ大将的な性格だった長谷川は、増えていった友人たちと分け隔て無く付き合った。

中学校を卒業して進学した高校では、さらに刺激に満ちた出会いがあった。秋田県は高校進学に関して県内を三つの学区に分けており、長谷川の住む雄和町は中央学区に属していた。長谷川が入学した秋田高校は中央学区で最も名の通った進学校であり、広い範囲から成績の良い生徒たちが集まって来た。その生徒たちは、それまでの友達とは違う個性や才能を持っていた。長谷川は高校で新しい人間関係を作る一方で、中学卒業とともにいろいろな高校に分かれて進んだ地元の友達との付き合いも途切れずに続いていた。

こんなふうに長谷川が成長していく過程で、知っている世界が広がるのと同時に友人たちとの繋がりも広がっていった。友人たちとの付き合いは気安く愉快でかつ濃密であり、長谷川はその交友関係がもたらす果実を十分に味わった。毎日が楽しかった。

ところが、高校を卒業し大学へ進む時になって、状況は一変した。昨日まで一緒に遊び、野球をし、勉強し、語り合った友人たちの多くが秋田を離れ、急にいなくなってしまったのだ。
進学校である秋田高校からは、同学年の生徒のほとんどが東京、仙台、北海道、関西などの大学へ進路を選び、全国各地にバラバラに分かれて行った。中学までの友達も多くが大学進学や就職のため秋田を離れた。

高校を卒業する年の3月中旬から下旬にかけて、長谷川は毎日のように秋田を離れる友人のために送別会を開き、出発する友人を見送った。
秋田から遠い土地に出発する友人たちは、秋田駅から特急に乗るか、あるいは秋田空港から飛行機に乗る。友人が秋田を発つ度に、長谷川たち秋田に残る者は4、5人で律儀に見送りに行った。
秋田駅へは、まずバスで最寄りの四ツ小屋駅に行き、そこから各駅停車の列車で秋田駅まで行く。そして特急の出発するホームに移動して友人を見送った。秋田空港へは、運転免許を持っている友達の車に乗せてもらって行くことが多かった。空港で2階の出発ロビーに上がり、そこで飛行機に搭乗する友人を見送った。

そんな時、長谷川は出発する友人に声をかけた。
「戻って来いよ」
それは心からの言葉だった。
しかし長谷川にとって意外な事に、生まれ育った秋田を離れ出発しようとする友人たちに悲壮感はみられなかった。彼らはむしろ意気揚々と旅立って行った。まるでこの秋田から逃げ出せることを喜んでいるようにさえ感じられた。

しかし、見送る長谷川の方には長い時間を一緒に過ごした友達と別れる切なさがあり、憂いがあった。友達が去っていった駅や空港から帰路につく時には寂しさがどっと押し寄せた。
友人たちの中では秋田に残る方が少数派だったので、居残り組は何度も繰り返し出発する友人を見送らなければならなかった。北国が春を迎えようとする日々、そうして友人を見送る度に長谷川の心に寂しさが澱のように溜まっていった。

そして大学の新学期が始まる4月1日を迎えた時、声をかけて一緒に遊ぶことのできる友人は、周りにもう数人しか残っていなかった。大学生活をスタートする晴れがましい日のはずなのに、長谷川は長い年月をかけて集めた宝を根こそぎ奪われたような喪失感にとらわれていた。
長谷川敦は、また一から友達づくりを始めなければならなかった。

長谷川が秋田大学教育学部に進んだのは、消去法で選んだ進路だった。
まず、秋田に残るというのが大前提であり、秋田で国公立大学、文系学部と言ったら、秋田大学の教育学部しかなかった。経済的な理由から国公立大学でなければならなかったし、理系科目が苦手だという理由から文系学部でなければならなかった。医学部、鉱山学部、教育学部の3学部を有する秋田大学で、唯一の文系学部が教育学部だった。
したがって教育学部に入ったものの、自分のキャリアとして教職を選ぶつもりはまったくなかった。長谷川は前々から、いずれは自分の育った土地、秋田で事業を始めようと考えていた。

長谷川が生まれ育った雄和町は農村地帯であり、大農家が多い。同級生も農家の子が多かった。そんな雄和町で、長谷川の祖父は工務店、父はペンキ屋という自営業を営んでいた。長谷川は子供の頃から、農家と自分のうちとの違いを意識させられた。つまり、友達のうちには田んぼがあり、米を作れば食っていくことが出来る。一方、長谷川家は田んぼのない家であり、自分で自分の身を守り、生きていかなければならない。
ただし、長谷川は自営業という職業に引け目ばかりを感じていた訳ではない。働く祖父や父の姿は、楽しそうだった。自営業の仕事は、農家のような生活の安定はないかも知れないが、自分の裁量で道を切り開いていく自由がある。長谷川はそう感じていた。

また、農村には公務員至上主義みたいな価値観があり、勉強していい学校に進み学校の先生か役人になることが言わば理想のキャリアとされていた。学校の成績の良かった長谷川自身、親や親戚からずっと「先生になれ」と言われてきた。
しかし、長谷川には、そんな決められたレールを走って行くような生き方への反発があった。

そうして高校生の頃には、好きな秋田という土地で何か事業をやりたいという希望をかなり明確に意識するようになっていた。秋田で事業をやるためには大学生活も秋田で送った方がプラスになる。そう思った。

将来事業を始めることを前提に、長谷川敦は、大学の4年間を何をやるか考えるモラトリアム(猶予期間)と規定していた。大学生活というのはそれが許される自由な時間だと考えた。
したがって大学にもあまり行かず、昼間は当時秋田に出来たばかりのイオン・ショッピングセンターへ行き、ベンチに座っていろいろな本を読み、夜は大学近くの安い飲み屋で友達と酒を飲み語り合う日々を過ごしていた。

そんな生活を送るうちに大学での友達も増えてきたが、長谷川の心の中には、依然として高校卒業時に秋田を発つ大勢の友人たちを見送った際の寂しさが澱のように淀んでいた。そして大学を卒業する時にも、再び同じ寂しさを味わうことになった。多くの大学の友人たちが就職のために秋田を離れたのだ。

人がいなくなる場所というのは価値がない場所なのではないか。自分が事業をやると決めている秋田という土地は価値がないのか。そういう疑問が頭を去らなかった。その疑問に向き合い、突き詰めて考えると、ますます秋田という地域が価値のない場所に思えてくるのだった。
若者が遊ぶ場所もなく、働く場所もない。だから自分が見送った友人たちのように若者がこの土地を離れ、人口が減っていく。それは経済の面ではマーケットが縮小していくということであり、企業もやって来ない。したがって経済は衰退し、雇用は失われる。職場を求めてこの地を去る者がますます増える。
考えれば考えるほど、それは動かし難い構造的な悪循環のように思われ、長谷川は打ち拉がれそうになった。

それが、今、長谷川敦が感じている言いようのないフラストレーションだった。