特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第7章「発信」 1.直訴

1997年は、秋田県にとってエポックメイキングな年となった。3月22日、秋田新幹線が開業し、秋田駅と東京駅が約4時間の直通運転で結ばれた。7月には、秋田自動車道の未開通部分、北上西IC-湯田IC間の開通により、北上JCから秋田南ICまでが全線開通する予定となっていた。さらに翌年の1998年7月には、秋田県2つ目の空港である大館能代空港の供用開始が予定され、秋田県の高速交通体系の整備は大きな進展を見せていた。

トトカルチョマッチョマンズの活動開始から1年が経過したこの年の4月、構成メンバーは大きく変化した。
それまで長谷川敦と雄和町の友人たちで活動してきたが、そこに安田琢や奈良真など高校時代の友人たちが加わった。高校時代の友人たちは、大学入学時の浪人や留年などのために、長谷川から1年遅れて大学を卒業した。長谷川からイーストベガス構想を聞きすっかりその気になった安田琢に説き伏せられて、彼ら高校時代の友人たちは開業したばかりの秋田新幹線などで秋田に帰ってきた。
3月に行った三浦廣巳の講演の影響力も大きかった。目標を高く掲げてチャレンジすることを説いた三浦の講演に心を動かされ、多くの若者が講演会を共催したトトカルチョマッチョマンズに入って来た。その中には、会場にいた金髪の元暴走族も含まれていた。

4月、長谷川は伊藤敬、安田琢、奈良真に声を掛けて集まった。彼らは、これからのトトカルチョマッチョマンズの活動について話し合った。
秋田高校グループや三浦廣巳の講演を聞いた友人たちの加入を機に、イーストベガス構想実現のためにもっと広く行動する集団を作ろう。差し当たって、今月予定している花見を「トトカルチョマッチョマンズ結成会」と銘打って大々的にやろう。そう彼らの意見は一致した。

トトカルチョマッチョマンズは1年前に発足していたが、メンバーを増強して新たなスタートを切るという点に重きを置き、彼らは「結成会」という言葉を使った。会場は、秋田市の千秋公園と決まった。長谷川は早速、メンバーに「場所の確保」、「食事」、「酒」の担当を割り振り準備を開始した。秋田市に桜の開花が近づいていた。

桜全線が秋田市に到達した。4月下旬のトトカルチョマッチョマンズ結成会の夜、雨は降っていないものの肌寒い天候だった。千秋公園は、秋田市の中心部、秋田駅から徒歩で15分程度の所にある。秋田藩の藩庁、久保田城の跡を公園にしたものだった。千秋公園の下、秋田県民会館の辺りから続く上り坂には、居並ぶ屋台で作られる焼きそばやお好み焼きの匂いが漂っていた。坂道を登り切った二の丸は大きな広場となっており、外周にはたくさんの桜の木と屋台が並び、花見客たちがそぞろ歩きをしていた。屋台に囲まれた二の丸中央の芝生の上では多くのグループがブルーシートに陣取り、桜と酒に酔っていた。

二の丸からさらに久保田城の名残を残す石垣に囲まれた石段を登っていくと、やがて本丸に出る。石段の上には紅白の提灯がつるされ、その明かりに照らされた薄ピンク色の花弁の連なりは幻想的な雰囲気を作り出していた。

本丸は、屋台が並ぶ二の丸に比べて暗かった。桜が立ち並んでいる外周の辺りは紅白の提灯があっていくらか明るいが、細かな砂利が敷き詰められた歩道の内側、中央部は明かりもほとんどない。本丸の中央付近には秋田藩十二代藩主、佐竹義堯公の銅像が建っている。その銅像近くにブルーシートを敷き詰め、50人前後の若者たちがビールや日本酒、肴の料理を味わい、大きな話し声を立てていた。トトカルチョマッチョマンズのメンバーと、メンバーが呼び集めた友人たちだった。

長谷川敦は、あゆかわのぼるをこの結成会に招待していた。約1年前、卒業旅行でのラスベガス体験と帰国後に聞いたあゆかわのぼるの講演が、イーストベガス構想を生み出すきっかけとなった。長谷川は、構想実現に向かって活動している自分たちの姿をあゆかわに見せたかった。

長谷川から電話で誘われたあゆかわは、若い人から花見に誘われて行かない訳にはいかないと、この夜千秋公園にやって来た。二の丸から続く石段を登り切ったあゆかわは、本丸を独占するように大勢の種々雑多な若者が集まって酒盛りをしている光景を見た。
「えらい所に呼び出されたな。これは暴走族の集まりじゃないか。」
あゆかわのぼるは内心そう思ったが、とにかく来たんだからと覚悟を決めて若者たちの輪の中に入り、長谷川や周りの若者たちと酒を酌み交わし語り合った。あゆかわが長谷川とじっくり話すのはこれが初めてだった。その場で話した若者の中には「このグループと出会って人生が変わった」と言う者もいた。夜遅くまでトトカルチョマッチョマンズのメンバーと飲んだあゆかわは「何かすさまじいエネルギーだ。こういうのが秋田を変えるんだな」と思った。

千秋公園は、夜が更けるにつれてますます寒くなった。参加者の中には寒さに耐えきれなくなり、その辺にあったビニールを身体に巻き付ける者もいた。それでも彼らは夜通し飲み語り続けた。
そして午前5時に近づくと日が昇り、辺りは明るくなった。その時刻までに帰った者も多かったが、本丸にはまだ20人程のメンバーが残っていた。

その時、長谷川は用意していた物を取り出した。それは油性マーカーと2メートル四方の白い布、そしてガムテープだった。
長谷川は布の上部に大きく「知事へのラブレター」と書き、その下に秋田県知事宛てのメッセージを書いた。自分が書き終わると、その場に残っていた他のメンバーに知事へのメッセージを書くように促した。やがて、白い布は書かれた文字でいっぱいで判読しにくい程になった。そこにあった言葉は、「秋田を変えよう」、「イーストベガス構想を実現する」、「私たちに会ってください」、「私たちはトトカルチョマッチョマンズです」、「このままでは秋田はダメになる、何とかしてください」など、秋田の現状を憂い変化を求める言葉だった。

全員が書き終わると長谷川は言った。
「よし、これを県庁の玄関に貼りに行くぞ!」
長谷川にとって、これこそが結成会のメインの目的だった。

その時、秋田県では新しい知事が選ばれたばかりだった。前知事の佐々木喜久治は、県職員が食糧費の名目で公費を不正支出した問題で引責辞任していた。前知事の辞任を受けて選挙が行われ前横手市長の寺田典城が当選したのは、結成会直前の4月20日だった。

長谷川は新しい知事に対して期待感を持った。前知事がエリート官僚のキャリアを経て秋田県知事となったのに対して、新知事の寺田典城は民間企業の経営者、県南部の市長という経歴を持ち県政とは離れた場所にいた。その寺田なら新たな風を起こし、食糧費問題という闇が明るみに出た県行政を改革するのではないか。長谷川は選ばれたばかりの県知事が自分たちの声を聞き届け、地域に対する危機感を共有してくれることを望んだ。

長谷川や安田琢、奈良真、伊藤敬、斎藤美奈子、高橋美由紀などトトカルチョマッチョマンズのメンバーたちは、白い布とガムテープを持って夜明けの道を千秋公園から秋田県庁に向かって歩き始めた。みんな夜通し飲んでいたため、かなり酔っ払いハイテンションになっていた。もう誰も寒いと感じていなかった。
彼らは朝の光の中、市街地の中心を貫く広小路と山王大通りの約2㎞を歩き通し、秋田市役所と秋田県庁が向かい合う官庁街に着いた。時刻はまだ7時前であり、辺りに人は誰もいなかった。

朝のひんやりした空気の中で、6階建ての県庁舎は重厚な姿を見せていた。長谷川たちは真っ直ぐ県庁正面玄関に向かった。数段の階段を上がり、大きな面積を持ったガラスドアまでたどり着くと、そこに知事へのメッセージを書いた布をガムテープで貼り付けた。
その時、「何をしている」という鋭い声が聞こえた。声の方を見ると、警備員がこっちに向かって近づいて来ていた。トトカルチョマッチョマンズのメンバーたちは蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げた。