イーストベガス構想が生まれた年、1996年も暮れようとしていた。再び雪が地上の全てを覆い尽くし、雄和町は白一色の景色の中にあった。
夢広場21塾・ヤング部会メンバーたちは「21委員会からの提言・秋田をこう変えよう!」を繰り返し読んだ。長谷川は付箋だらけになった「秋田をこう変えよう!」の青い表紙を眺めながら、ある思いを抱いていた。
この本を作った21委員会の会員たちは、秋田の経済界の中心にいる人たちだ。でも、そこに留まらずチャーター便で大勢の秋田県民をミネソタ州に送り込んだように、企業の枠を超えて地域のために大胆に動く行動力を持っている。「秋田をこう変えよう!」でも、データに基づいて地域の現状を理論的に分析し問題点を正面から見て、その上で秋田を変えるための提言を示している。
この会員たちは秋田の県民性を表す「ひやみこき」そして「足ひっぱり」すなわち、怠惰で、新しいことをやろうとする人の足を引っ張る性格の対極にいる。この人たちなら、秋田を変えるためにイーストベガスを実現しようとしている自分たちに、適切なアドバイスをくれるのではないか。
そうだ、21委員会の須田精一会長に講演をしてもらおう。21の翼や「秋田をこう変えよう!」で行動力と現実を見る目を示し、秋田のリーディングカンパニー、由利工業グループを率いる須田会長は、きっと自分たちの糧となる話をしてくれるに違いない。
長谷川は須田会長へのアプローチを試みた。と言っても、須田会長が代表取締役を務める由利工業は西目町にあり秋田市からは片道1時間以上かかる。これでは、仕事の合間に訪ねて行くことは難しい。
長谷川は「秋田をこう変えよう!」をもう一度見直した。この本の「おわりに」は、21委員会の三浦廣巳専務が書いていた。本の末尾にある21委員会の会員名簿を見ると、三浦廣巳専務は秋田日産自動車など数社の代表取締役を努めているが、どの会社も秋田市内に本社があった。
まず三浦廣巳21委員会専務を訪ねて、須田会長の講演を依頼しよう。長谷川はそう決めた。
長谷川は何本か電話を掛けた後、秋田日産自動車の本社で同社の三浦廣巳社長と面会するアポイントを取り付けた。秋田日産自動車の本社は、通称の「新国道」で呼ばれる県道56号線に沿った大きなショールームを持つ日産ラ・カージュ店にあった。
年の暮れのある日、長谷川は理由をつけて仕事を抜け、新国道にある日産ラ・カージュ店に向かった。秋田日産自動車に着いた長谷川は、ラ・カージュ店内の丸テーブルに案内され、そこで待つように言われた。丸テーブルを前に姿勢を正してイスに座り、ショールーム内に並ぶ新車に目をやりながら、長谷川は自分が緊張していることを意識していた。
仕事柄、毎日のようにいろいろな企業の経営者に会っているとは言え、三浦廣巳社長に会うことはまた別の意味があった。三浦社長は、40代半ばにして秋田日産自動車や三傳商事など秋田県を代表するような数社の代表取締役を兼任し、21委員会の専務でもあるように秋田県経済界の大物だった。長谷川は三浦社長にもイーストベガス構想を説明するつもりだった。自分たちが何を目標に活動しているか分かってもらった上で、須田会長に講演の依頼をしようという計画だった。
約束の時間となり、長谷川は応接室に通された。応接室に入ってきた三浦廣巳社長を見て大物経営者というイメージに比べると、見た目が若々しいという印象を持った。
長谷川は早速、用件に入った。最初に、「秋田をこう変えよう!」を読んで感銘を受けたこと、講演の依頼で来たことを話したうえで、自分たちが取り組んでいるイーストベガス構想を説明し始めた。長谷川にとっては、セールストーク並みに言い慣れたストーリーであり、落ち着いて説明することが出来た。三浦社長は長谷川が話している間、静かにごく自然な態度でその話を聞いていた。
長谷川の説明が終わった時、三浦社長が話した言葉は、それまで長谷川が会った経営者たちの反応とは全く異なっていた。三浦社長の第一声はこうだった。
「面白い発想だね。」
それが否定的な言葉でないことに長谷川は内心、安堵した。三浦社長はさらに続けた。
「簡単には出来ないかもしれないけど、とにかく頑張れ。私たちにできることは応援しましょう。」
長谷川は心の底から驚いた。否定的な言葉が無いどころではなく、三浦社長は「応援しましょう」と100%肯定的な言葉をくれた。長谷川は飛び上がりたいほどうれしかった。イーストベガス構想に対して、そういう言葉を言ってくれた「大人」は三浦社長が初めてだった。
三浦社長の構想への反応が他の大人たちと違っていた理由には、ラスベガスという都市に対する知識の差があった。三浦社長は、ラスベガスがカジノだけでなく複数の顔を持つ街であることを認識していた。ラスベガスでは極めて規模の大きい国際的な展示会や商談会が開催されており、その中にはラスベガスでなければ出来ないものもある。三浦社長は、以前からラスベガスのそういうコンベンション都市としての性格に注目していた。
また、誰もが夢物語としか思わなかった秋田でのイーストベガス建設に関しても、カジノを合法化する法律面が進むという前提に立てば、行政と民間が力を合わせれば現実性はあると思った。したがって「イーストベガス構想」は秋田を元気にさせる力となることができる。三浦社長はそう考えた。
長谷川は初めて受け取った力強い言葉に感動しながら、本題である講演の依頼に話を戻した。
「ぜひ、21委員会の須田精一会長に講演をお願いしたいんです。」
そう言う長谷川に三浦社長は、答えた。
「残念だけど、須田会長はここのところ長期の海外出張に出かけています。だから、しばらくは難しいな。」
ただし、話はそこで終わらなかった。
「もし私で良ければ、お話してもいいですよ。」
三浦社長には、長谷川たちに話す講演内容の心づもりがあった。三浦社長には毎年、自社の新入社員たちに伝える話があった。その話は、自分の会社の社員であるかないかに関わらず、若い人たちにはぜひ言っておきたい内容だった。
三浦社長が講演してもいいという話は、長谷川にとって願ってもない提案だった。
「本当ですか。ぜひお願いします。」
長谷川はそう言いながら、三浦社長の「応援しましょう」という言葉が口先だけのものではないことを確信していた。