特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第4章「始動」 1.最初の仲間

北国秋田に春が訪れた。上空を低く覆っていた灰色の雲は去った。平地の雪はほとんど溶け、桜の蕾こそまだ小さく固いものの、草木が芽吹き初めていた。秋田大学教育学部を卒業した長谷川敦は、この年の4月、社会人としての歩みを始めた。

1990年の株価暴落に端を発するバブル経済崩壊から数年、日本の景気は冷え込み、学卒者の就職に関しては「氷河期」という言葉が使われるほど厳しい状況が続いていた。秋田県は全国的な状況に輪をかけて厳しい就職環境にあったが、長谷川は大学4年の12月に、希望どおり秋田市内に就職先を確保することに成功していた。彼が就職したのは秋田市にある「マスブレーンズコア」という税理士事務所を母体に持つ経営コンサルティング会社であり、長谷川の初めての仕事は経営コンサルタントのアシスタントだった。長谷川は、雄和町の実家から秋田市の会社へ通勤する生活を始めた。

生まれ育った秋田でいつか事業を起こすという長谷川の計画からすれば、秋田で就職するという道は必然だった。経営コンサルティングという業種は、経営の基本的な仕組みを理解することができるはずで、自分で事業を始めるためのノウハウを得るうえで最適なキャリアと思われた。
長谷川は就職面談の席でも「いずれ秋田で起業したい」という希望をこの会社の社長に伝えていた。社長はそれを承知した上で長谷川を採用したということになる。大学での成績もあまり良くない自分をなぜ採用することにしたのか、長谷川には分からなかった。

大学生から社会人へと立場は大きく変化したが、長谷川敦のイーストベガス構想への熱意は変わらなかった。それは単なる希望でも夢物語でもなく、実現すべきプロジェクトだった。今、そのプロジェクトは長谷川の頭をほとんど占領していた。

サラダ館で友人たちに初めてイーストベガス構想を説明した時は、ほとんど賛成する言葉が返ってこなかった事に少し落胆したが、その後も、長谷川は機会がある毎に友人、知人に構想を説き続けた。しかし、いくら一生懸命に説明しても友人や知人たちの反応の乏しさは相変わらずだった。仲のいい伊藤敬には、秋田市川反の焼き鳥屋で、またサラダ館で、酒を飲みながら「秋田にラスベガスを作る」という構想の必要性、素晴らしさについて繰り返し語ったが、その度に返ってくるのは「本当にそんなことが出来るの」という反問だった。あの夜、サラダ館で泣きながら「絶対反対」と言った加藤のり子は、その後も反対の意見を変えることはなかった。

そんなふうに友人たちとのやり取りを重ねるうちに、長谷川は一つの事実に思い至った。
自分以外、誰もラスベガスを見ていない。
それは本質的な事だった。ラスベガスを実際に体験したことのない者には、長谷川がいくら言葉を尽くしても、その街が持つ魅力を真に迫って伝えることが出来ないし、その街の魅力を実感していない者には、秋田にラスベガスを作るという構想の意味を本当に理解させることが出来ない。自分自身だって、ついこの前までは「ラスベガス」と聞いてもマフィアが支配するギャンブルの街というイメージしか思い浮かばなかったくらいだ。そう考えると、友人たちに「秋田にラスベガスを作る」と言ってもめぼしい反応がないのも当然だと思えた。

長谷川は考えた。みんなをラスベガスに連れて行こう。ラスベガスを実際に見せて、それがどんな魅力を持った街なのか、その魅力に惹かれて世界中からどんなふうに人が集まって来ているのか知ってもらおう。イーストベガス構想を実現に向かって一歩でも近づけるためには、それが必要だった。
しかし今は、みんなを連れて行く手段がない。そのための金もないし、時間もない。一緒にイーストベガス構想実現のために力を尽くしてくれるはずの友人たちに実際のラスベガスを見せるためには、何をしたらいいのだろうか。

長谷川の頭にある人物の顔が浮かんだ。それは、あゆかわのぼるの講演に自分を誘った雄和町役場の職員、浦山勇人だった。

長谷川は浦山にも自分が創り出した「構想」を説明していた。浦山の反応は友人たちとあまり変わらず、現実味のある話とは受け取っていないように見えた。
ただし、長谷川にとっては、浦山が友人たちとは違う立場にいることに意味があった。
イーストベガス構想は「街づくり」のプロジェクトであり、街づくりは行政の担当業務に関わる事項だ。友人たちをラスベガスに連れて行くに当たって行政の力を借りることは出来ないだろうか。長谷川に具体的な道筋が見えている訳ではなかったが、そんな漠然とした考えが浮かんだ。町役場に勤め行政に身を置く浦山なら、他の友人たちとは違う所から助けの手を伸ばしてれるかも知れない。

4月が始まって間もないある日、その浦山の方から長谷川に電話があった。
「雄和町で『夢広場21塾』という事業をやってるんだけど、この『夢広場21塾』にはヤング部会という部会があるんだ。長谷川君、この部会で活動してみないか。」

雄和町が行っている事業、「夢広場21塾」は行政に対する町民による諮問機関といった位置付けだった。いくつかの部会に分かれており、例えば「国際交流部会」や「教育福祉部会」があった。それぞれの部会に参加した町民は、部会のテーマに関して学習を行い、さらに町長への提言を行っていた。各部会には、時間的に比較的余裕のある中高年を中心とした町民たちが参加していた。その中で「ヤング部会」は幽霊会員がほとんどで実質的に活動していなかった。浦山には、このヤング部会を機能させ、若い町民から町に対する意見や提言を出してもらおうという狙いがあった。

浦山の話を聞いた長谷川には、依頼の背景が飲み込めた。これは明らかにあゆかわのぼるの講演が伏線になっている。若い町民の意見を聞くことを狙いに「ヤング部会」を作り直そうとしたが、この前の講演のように参加者が集まらない心配があるのだろう。講演の時に友人を連れて行ったという実績を頼りに、今度は「ヤング部会」への人集めを期待されているらしい。

イーストベガス構想実現のために行政の力を使えないかと考えている長谷川にとっては、渡りに船だった。ヤング部会は、構想を前進させるための舞台となるはずだ。 「面白そうですね。分かりました。友達に声をかけてみます。」
長谷川は即答した。電話の向こうから安堵の気配が伝わってきた。

長谷川はすぐに動いた。仲の良い友人たちを半ば強制的に「夢広場21塾・ヤング部会」に集めた。まず声をかけたのは、いつもサラダ館で一緒に飲んでいるメンバー、伊藤敬や斎藤美奈子たちだった。もう一人、仙台の東北福祉大学を卒業し4月から雄和町の社会福祉協議会で働き始めていた石井誠も誘った。
「ヤング部会に参加したら、ラスベガスの視察に連れていく」
何の根拠もなかったが、長谷川は勧誘の殺し文句としてその言葉を使った。

勧誘したのはみんな中学校以来の気心の知れた友人であり、これまでも成人式の企画など雄和町の行事に一緒に参加していたこともあって、「ヤング部会」への参加にはさして抵抗を感じていないようだった。長谷川は、スムーズに参加の応諾を得ることができた。
ただし、サラダ館で構想に反対した加藤のり子は参加しなかった。

4月のある夜、夢広場21塾・ヤング部会の初めての会合が開かれた。
その日は平日であり、部会メンバーはそれぞれの仕事が終わった午後7時30分、雄和町農村環境改善センターの一室に集まった。その顔ぶれは、長谷川敦、伊藤敬、石井誠、斎藤美奈子、鈴木美咲、渡辺美樹子など雄和中学の同学年の仲間たち約10人だった。長谷川敦にとって、このメンバーがイーストベガス構想の実現に一緒に取り組む最初の仲間だった。

他にヤング部会には、一人だけ長谷川たちよりも10歳ほど年上のメンバーがいた。彼は、町内にある建設会社の社長の息子だった。

最初の部会には、雄和町役場から2人の職員が参加した。教育委員会・社会教育課の浦山勇人と、その上司の伊藤課長だった。町役場で青年教育の担当をしていた浦山には、一つの思いがあった。
若者の社会参画が希薄になっている。頭が柔らかく、これから雄和町を引っ張っていく若者からもっと町に対する提言をしてもらい、それを行政に取り入れたい。長谷川敦は、浦山の弟の同級生という関係で前から知っていたが、あゆかわのぼるの講演会に友人を連れて来るなどリーダーシップもあり、思いに応えてくれそうな期待があった。

しかし、部会では初っぱなから浦山たち町職員と長谷川とが衝突することになった。
冒頭、浦山から夢広場21塾や、ヤング部会の趣旨の説明があった後、ヤング部会として取り組む「テーマ」を考えようという事になった時だった。

浦山たちは、部会メンバーからテーマに関する意見が出なかったことも考え、いくつかたたき台としての案を持って来ていた。その案とは、「町に対して早く下水道を整備して欲しいという提言を行う」とか「若者が中心となって町を活性化させるイベントを実行する」といったテーマだった。

それらのテーマは、担当課としてヤング部会に期待するものであった。つまり、下水道の整備は町が実施したいと考えている施策であり、ヤング部会からそれを後押しする提言を引きだそうという意図があった。また若者による祭りやイベントは、あちこちの自治体で行われていた活動であり、それで地域を盛り上げたという実績になればいいと考えられた。

浦山がその案を提示すると、長谷川がすぐに反論した。
「せっかくヤングが集まって雄和の街づくりを考えるのだから、もっとスケールの大きい壮大なテーマにしましょう。若者が忙しい中わざわざ時間を作って活動するのに、下水道の整備はないでしょう。」
返す刀で若者によるイベントも切って捨てた。
「いろんな所の青年会が『なんとかフェスタ』とか『なんとか祭り』とかやってますが、そんなしょうもないイベントをやっても自己満足に過ぎません。その場は多少盛り上がったように見えても、それで地域の状況が根本的に変わる訳じゃない。もっと本質的な所から街づくりの構想を考えましょう。」
続いて長谷川は街づくりについての持論を述べた。
「このヤング部会では、ラスベガスを手本にした街づくりを研究しようと思います。」

ラスベガスを手本にした街づくり、それは浦山もすでに長谷川から聞いていたアイデアだった。だが、浦山にはその構想に対する根本的な疑問があった。

荒唐無稽な事を言って、こいつらはバカじゃないのか。結局自分たちが遊ぶ所を作りたいだけじゃないのか。浦山はその疑問を口にした。
「なぜラスベガスみたいに、雄和にカジノを持って来ようと言うんだろう。それは、自分たちが遊びたいだけじゃないか。」
長谷川は正面から答えた。
「違います。カジノは手段であって、目的じゃないんです。カジノを中心にした街づくりで世界中から観光客を集め、いろんな産業を興し、雇用を増やそう、そういう街づくりの構想なんです。」
浦山や伊藤課長は、長谷川の発言を聞いて苦笑いをした。町の事業でカジノを中心にした街づくりを研究するなんて、そんなテーマを役場として認めていいのだろうか。だいたいカジノは日本では非合法だ。街づくりに若者の意見を活かそうという狙いだったが、どうやら藪をつついて蛇を出してしまったようだった。

しかし、長谷川は自分の意見を曲げなかった。今は自分の頭の中にだけ存在するイーストベガス構想、それを資料やデータ、いろいろな人の意見によって検証し、誰に対しても説明できる形に表そうと考えていた。長谷川にとって、ヤング部会はその活動のための場だった。もとより、他の部会メンバーには長谷川への異論があるはずもなかった。

浦山や伊藤課長にも、長谷川の「構想」が自分たちが楽しみたいという小さな欲求から出たものではなく、真面目に地域の将来を考えたうえで主張されていることは理解できた。それに、このヤング部会のメンバーはほとんど長谷川が集めたようなものであり、彼がやりたいテーマを認めることにも正当性があるように思われた。

最後は長谷川の意見が通り、ヤング部会は「ラスベガスを手本にした街づくり」をテーマにして活動していくことになった。こうして、イーストベガス構想の実現に向かって、始めの一歩が踏み出された。