村岡兼幸の知事選挙は、真っ正面からの逆風を受けての船出となっていた。
「2期目の首長選挙は現職が強い」と言われる。その第一の理由は知名度の高さにある。4年間知事の座にあった寺田典城の名前は県民に浸透している。さらに、民間出身から県知事となり食糧費問題を始めとする積年の問題の解決に労力を費やさざるを得なかった寺田は、前年2月に県政の指針となる「あきた21総合計画」をまとめたばかりであり、県民の間にはその計画を寺田自身に遂行させたいという気持ちがあった。
対する村岡兼幸は寺田に比べて知名度に乏しく、また、国会議員を父に持つという氏素性はこの場合マイナスに働いた。彼を見る有権者には大物政治家の息子という側面が意識された。そのことを感じた彼は出馬表明の記者会見で次のように語った。
「父は尊敬していますが歩んできた道が違いますし、自分は政治とは違う地域のまちづくりとして市民運動をしてきました。立候補は一県民として決意しました。仮に知事になったとしても親子はいっさい関係ありません。」
しかし、その言葉にもかかわらず「国(国政)も県(県政)も村岡に任せなきゃいけないのか」という疑問を抱く有権者は多かった。父の兼造は村岡兼幸の出馬表明直後の2000年12月に自民党総務会長に就任していた。
自民党のイメージも悪化していた。2000年2月、えひめ丸事故が発生した。日本の水産高校の練習船「えひめ丸」がハワイ沖でアメリカ海軍の潜水艦と衝突して沈没、高校生4名と教員5名が死亡した事故である。首相の森喜朗はこの事故の第一報が入った時ゴルフ場でプレーの最中だったが、その後1時間半プレーを続けたことが危機管理上の問題とされ国会でも取り上げられた。事故への対応を批判された森内閣の支持率は急低下し10%を切った。
寺田知事と自民党の争点となっていた国際系大学に関しても、寺田の側に立つ者は多かった。2000年4月に板東副知事らが奔走して秋田県が組織した国際系大学検討委員会には、経済界から電子工業振興協議会会長の須田精一、秋田商工会議所会頭の辻兵吉らが委員として参加していたし、2001年1月に民間主体で設立された国際系大学設置促進協議会には岸部恵一秋田商工会議所副会頭や小松正一秋田県農協中央会会長など経済界の中心人物が多数参加していた。
国際系大学設置を秋田県の国際化時代を開くチャンスと捉える者は、数の力を頼りに大学の設置を阻むような自民党のやり方に憤りを感じていた。荒牧敦郎もそんな気持ちを抱く一人だった。
2000年3月20日、春分の日の午後、県庁に近い秋田市山王に村岡兼幸と長谷川、奈良などトトカルチョマッチョマンズの顔ぶれがあった。それは石川直人によって設定された「トークバトル」という名の若者と村岡兼幸の意見交換の場であり、村岡の選挙事務所内のテーブルをパイプ椅子に座った数人の参加者が囲んでいた。その中には長谷川からの誘いに乗って参加した荒牧の姿もあった。
意見交換が始まると、荒牧は国際系大学に対する考えを村岡に問い質した。村岡は、ミネソタ州立大学秋田校の運営が齟齬をきたした経緯を踏まえ新たな国際系大学を設置しても成功は疑わしいと考えていた。彼は答えた。
「国際系大学については、2003年4月の開学にこだわることには反対です。県民のコンセンサスに基づいて対応することが一番重要で、県民のみなさんの意見を十分に聞いて考えていきたいと思います。」
村岡の答えを聞いた荒牧は、村岡が選挙で「分かりやすさ、スピード、タイミング」をキャッチフレーズにしていることを逆手に取って反論した。
「今、文部省出身の板東副知事がいることは秋田県にとって国際系大学を進める大きなチャンスです。板東さんがいる今なら、日本とアメリカ両方の大学卒業資格を取れる日本で初めての大学を作れるかも知れない。そのチャンスを活かさなきゃいけない時に、自分で判断しないで県民のみなさんの意見を十分に聞いてなんて言っているようじゃ遅いです。そんなやり方は、分かりやすくないし、スピードもないし、タイミングも外してる。」
荒牧のけんか腰の物言いに村岡は戸惑った表情を見せた。トトカルチョマッチョマンズと一緒に並ぶ荒牧を村岡はそのメンバーの一人と思っていた。長谷川たちの活動に親近感を覚えていた村岡にとってその言葉は予想外だった。彼は思わず言った。
「これは本当のトークバトルだ。」
告示日が近づく中、激しい戦いを続ける各選挙陣営とは別のところで一つの計画が進行していた。それは、2000年6月の衆議院選挙の際にトトカルチョマッチョマンズが展開したウェブ選挙に連なる動きであり、選挙のあり方を変えようとする有権者たちの企てだった。
その頃、秋田県内では地元のあれこれを題材とするいくつものウェブサイトが作られていた。その一つに「ジョモティ」があった。それは「縄文の民」を意味するタイトルであり、遮光器土偶に代表される縄文の文化豊かな土地から発展した北東北そして秋田の「生活、人、出来事」を発信するサイトだった。
「ジョモティ」を運営する高橋茂は、横手市を拠点にタウン情報誌「月刊あんどなう」を発行する有限会社シスコの経営者であり、紙媒体とインターネットを両輪に地域の面白い情報を発信し地域住民で共有する事業を行っていた。
高橋は2000年11月にジョモティ内に「誰に託すの?次のAKITA」というコーナーを設けた。これは次の知事選をテーマにした公開掲示版であり、立候補予定者の人物像や政策、秋田の政治や社会に対する自分の意見や疑問が次々に書き込まれた。
高橋はトトカルチョマッチョマンズのウェブ選挙「カキコ@選挙」も見ており、長谷川たちと同様に掲示版開設に当たっては県の選挙管理委員会に相談し、中傷や投票依頼など趣旨にそぐわない書き込みがあると見つけ次第削除した。
この公開掲示版に書き込まれる議論は、最初は現状への不満を訴えるものが多かったが、次第に「提言型」の意見が多くなっていった。そのような提言の中に公開討論会を求める意見があった。ウェブ掲示版で自分の意見を言うだけでなく、候補者自身の口から政策を聞き、自分の疑問に答えて欲しいという意見が相次いだ。
高橋茂は、候補者が参加する公開討論会を自分の手で実現することを考え始めた。
かつて日本では、地方選挙や国政選挙の際に同じ会場で複数の候補者が演説する「立会演説会」が行われていた。しかし、自分の陣営の候補者を応援するあまり他の候補者の演説を野次などで妨害する行動が激しくなったため1983年の公職選挙法改正で禁止され、それ以降、複数の候補者の考えや政策を同じ場で聞く機会は久しく失われた。
そんな状況を変えるため、1996年から候補者同士の政策論議により政治家を選ぶルールを確立しようとするNGO地球市民会議の公開討論会支援プロジェクトが始まった。その活動は2000年11月にNGOリンカーン・フォーラムに引き継がれた。
高橋茂が公開討論会の道を探っていた時、それとは別個に公開討論会の実施を考えているグループがあった。その一人、真壁善子は秋田大学教育文化学部の2年生だった。20歳になり選挙権を得た彼女は大学の同級生たちと「投票の判断材料を得る機会として立候補予定者による討論会を行えないだろうか」と話し合っていた。
真壁たち秋田大学や秋田経済法科大学の学生グループと高橋茂の考えに同調する社会人グループはお互いの存在を知り、2001年3月2日に合流して「2001年秋田県知事選挙で公開討論会を実現する会」を結成した。最年少の真壁善子が会の代表になった。
高橋茂はトトカルチョマッチョマンズの長谷川敦と知り合いだった。前年4月、仙台で開かれたベンチャービジネスの祭典、フォレストポラーノin仙台に高橋茂も参加し、その会場で長谷川と顔を合わせた。その日初めて会った二人は意気投合し、「次は秋田でやりたいね」と語り合った。その後も、高橋の依頼を受けてトラパンツが「ジョモティ」のサイト分析を行うなど関係を保っていた。
高橋は「公開討論会を実現する会」に生きのいいメンバーを入れようと、長谷川を誘った。頼まれれば嫌とは言わない性格の長谷川は進藤岳史と一緒に会の発起人14人の中に名を連ねた。
選挙前年に出馬表明した寺田典城と村岡兼幸に加え、共産党秋田県委員会書記長、奥井淳二が2001年2月に知事選立候補を表明、選挙はこの3名の争いになると予想された。
公開討論会実現への最初の、そして最大のハードルは立候補予定者たちの同意を得ることである。そもそも立候補予定者が参加しなければ討論会は成立しないので、それは絶対条件だった。そして立候補予定者全員の同意を得るのは簡単な話ではない。挑戦者の立場にある新人の候補者にとって、公開討論会は名前を有権者に知ってもらい自分の政策をアピールする絶好の機会となる。しかしすでに知名度のある現職にとっては、知名度を上げるメリットがないばかりか対立候補に自分を批判する機会を与えるというデメリットもある。したがって高橋や真壁が目指す討論会開催の可否は、実際上、寺田典城の同意を得られるかどうかにかかっていた。
横手市でジョモティを運営する高橋茂は、寺田典城、村岡兼幸の二人と面識があった。高橋は横手JC理事長を務めた経験があり、1歳下の村岡兼幸とはJCの活動を通じたつきあいがあった。また、寺田典城は高橋が横手JC理事長の時の横手市長だった。
高橋は寺田、村岡の両陣営に公開討論会参加を要請し、村岡そして寺田もこれを承諾した。共産党の奥井も参加を承諾した。日程に関しても3候補者の同意を取り付け、「実現する会」は公開討論会の実施に向け一気に走りだした。会場を確保した真壁善子たちは、3月9日、秋田県庁内で記者会見を開き、「3月26日午後6時半から、秋田市文化会館小ホールで3人の立候補予定者による公開討論会を開催します」と発表した。秋田県で初めての公開討論会だった。
討論会のコーディネーターは秋田経済法科大学の佐渡友哲(さどとも・てつ)教授に引き受けてもらった。公開討論会まであと2週間少し、真壁や高橋らは準備に忙殺された。チラシの作成、報道機関への対応、当日のスケジュール作り、役割分担の作成などやるべきことは山のようにあり、「実現する会」のメンバーは準備開始が遅くなったことを悔やみながらも目の前の作業に取り組んでいた。公開討論会の中立性、公平性を守るために会場費、看板製作費、配付資料代など必要な資金約15万円はすべて個人カンパでまかなうことに決定した。真壁や高橋などメンバーは毎日のように秋田駅東西連絡自由通路「ぽぽろーど」などで街頭カンパにあたり、春休み中の高橋茂の小学生の娘も時には父親を手伝った。
「公開討論会を実現する会」の一員となった長谷川敦は、準備を手伝いながらあることを目論んでいた。彼の狙いは、公開討論会の中でイーストベガス構想を議題に取り上げ、立候補予定者たちの口から意見を言ってもらうことだった。
伊藤憲一雄和町長は選挙でイーストベガス構想の研究を公約に掲げたが、雄和町長選と県知事選では注目度がまったく違う。この討論会でイーストベガス構想が議論のテーマになれば、この構想が秋田県の政策となり得ることを県民に示すことができる。さらに立候補予定者の一人、村岡兼幸は長谷川たちの活動に好意的であり、県民が注目する中でイーストベガス構想に賛成する発言をしてくれれば構想の重要性、現実性は一気に県民が知るところとなる。長谷川は自分自身が討論会の運営メンバーとなっているという千載一遇のチャンスを逃すつもりはなかった。
長谷川は高橋茂に率直に狙いを話し実現の方法を相談した。しかし、討論会の限られた時間内で討論テーマとしてイーストベガス構想を持ち出すのは唐突な感じが否めない。高橋は長谷川に二つの提案をした。一つは、あらかじめコーディネーターの佐渡友教授に資料を渡しイーストベガス構想の内容を説明しておくこと、もう一つは「参加者からの質問」という方法を使うことだった。
3月26日、月曜日。公開討論会当日は、冬のなごりの雪が舞う天候だった。午後6時過ぎ、山王大通りをはさんで八橋球場の向かいにある秋田市文化会館小ホールは満員になっていた。参加者が集まるだろうかという真壁たちの心配はまったくの杞憂に終わった。それどころか小ホールの400席では全員が座れず立ち見が出る状況だった。トトカルチョマッチョマンズから参加した長谷川、進藤、奈良らは会場整理に当たり、長谷川の妻、美由紀は受付を担当した。
6時30分、公開討論会が始まった。主催者を代表して演台に立った白いシャツ、黒いスーツ姿の真壁善子は、緊張を感じさせながらも笑みを絶やさず挨拶を述べた。壇上では手話通訳が行われた。
「この公開討論会では各立候補予定者の政策的な争点を明確にし、私たち県民が知事を選ぶうえで、比較、判断しやすくすることを目的としています。そのため私たち主催者側も公平さ、中立さには細心の注意を払っておりますが、どうか、この後説明いたしますルールをきちんと守り、みなさまにとっても良い会となるよう、ご協力のほどよろしくお願いします。」
続いて主役の4人が拍手に迎えられ壇上に現れた。客席から向かって左のテーブルにはコーディネーターの佐渡友哲が座り、右のテーブルの立候補予定者3人はくじ引きの結果、左から村岡兼幸、寺田典城、奥井淳二の順に座った。
ここで高橋茂が壇上に上がり討論会のルールについて説明した。NGOリンカーン・フォーラムが提唱する公開討論会の運営方法を参考にしたルールは、真壁の挨拶にあったとおり公平さを重視しており、立候補予定者の発言順序はテーマごとに変更し、客席の参加者に対しても、声援や野次はもちろん、拍手さえ司会者やコーディネーターから求められた時以外は禁止という徹底ぶりだった。
コーディネーター、佐渡友哲の進行により討論が始まった。討論は4つのプログラムからなっていた。一つ目は、自己紹介を兼ねた所信スピーチ、二つ目は、3つのテーマ、「産業経済政策」、「少子高齢化対策」、「地方分権」に対するスピーチ、三つ目は、立候補予定者が互いに質問しあうクエスチョンタイム、そして四つ目は、会場の参加者からの質問を発表し、その質問を踏まえた最終スピーチだった。
二つのプログラムで立候補予定者たちがスピーチを行った後、三つ目のクエスチョンタイムになった。寺田典城は村岡兼幸に対し次のような質問をした。
「村岡さんは、国とのパイプだとか地方分権に関しそういうことを強調しているようですし、県庁と県議会の結び目となっているとかそういう話なんですが、どういう尺度でものをお考えになっているか」
これに村岡は答えた。
「私自身、一度も『パイプ』という表現をしたことはありません。国、県、市町村がお互い力を合わせて努力することは当然のことじゃないかと主張しているだけです。県知事も県議会も県民から付託を受けた代表ですし、お互いに役目が違います。県知事と県議会がお互い尊重しながらやっていくことが大事だと主張しています。」
奥井淳二から寺田典城へ、財政赤字の理由などについて質問した。寺田は答えた。
「この5、6年で景気浮揚のため公共投資を行ってきたことは事実で、それが大きな財政赤字になっていることは事実です。秋田県の場合、長木ダムについては費用対効果の関係で止めることにしましたが、秋田市の中央地下道についてはやることにしました。」
村岡からは寺田、奥井二人に対して共通の質問をした。
「地方分権の時代は市民活動、ボランティア活動が根付かないと本物にならないと考えます。その中で、なかなか日本の社会でボランティア、市民活動が根付いていきません。多くのボランティアを支える少数の核には、行政が積極的にでも支援しながら全体を組織化、あるいは計画的に育てていくことが大事だと思いますが、そこら辺に行政として踏み込む気持ちがあるかどうかお聞きしたいと思います。」
村岡の質問に寺田は答えた。
「NPO、ボランティアについては、あきた21総合計画の中で大きなテーマになっています。具体的には、今年は県民参加のクリーンアップ事業だとかいろいろ進めようとしています。これからの時代は、多種多様な主体、いろいろな形で、ボランティアなり、NPOなり、参加型の行政ということで徹底的にやっていこうと考えていますのでご理解いただきたい。」
同じ質問は奥井は答えた。
「私は県民が主人公というお話をしています。青年たちが進めるボランティア活動を県がひも付きでない援助をしていくことが必要と思います。さまさまな青年団体、ボランティア団体を行政がしっかり掌握して、行き届いた援助をするということは県政の発展にとっても非常に大事なことだと思いますので進めていきたい。」
続いて、立候補予定者への質問が発表された。これは会場の参加者からの質問だけでなく、これまでの1か月間でインターネットや電話、FAXで寄せられた質問を含めて集約したものだった。内容は、公共事業、対外航路の活用、国際系大学の設置、男女共同参画、雇用問題など多岐に渡った。その中で、最初から2番目にイーストベガス構想についての質問が特に詳しく発表された。
「私たちは秋田を面白く生まれ変わらせようとイーストベガス構想などのまちづくり運動を5年間展開している20代の若者グループ、トトカルチョマッチョマンズです。ふるさと秋田について私たちの世代が実感していることは人口流出、人口減少です。そこで、空港付近にカジノホテルという集客力の高いコンテンツを中心に国際コンベンションセンター、テーマパーク、ショッピングモールなどを集積し全世界の人に来てもらおうという構想です。秋田の抱える問題の根源である人口減少、少子化、高齢化の効果的な解決策と考えるこのイーストベガス構想に関して、各立候補予定者のご意見をうかがいます。」
立候補予定者が一人5分間を与えられた最終スピーチは、これらの質問を踏まえ自分の意見を述べる最後の機会であり、発言は奥井、村岡、寺田の順だった。最初に発言した奥井はイーストベガス構想については触れなかったが、二番目の村岡兼幸はこの構想について意見を述べた。
「地域おこしのイーストベガス構想というのは本当に面白い発想で、それこそお互いの意見交換の中からどうやって若者たちが集まる、そして働く場がある、そういう新しい発想を持ったものをぜひ県政にも取り入れていかなければならないと思いますので、議論をし合ったことも2度、3度ありますし、ぜひそんな構想をしっかりと打ち立てていきたいと考えます。」
この討論会で観客管理責任者という役割を与えられた長谷川敦は、会場内で村岡の発言を聞いていた。「県政に取り入れていかなければならない」、「ぜひそんな構想をしっかりと打ち立てていきたい」。これらのイーストベガス構想へのコミットを表明する言葉は、長谷川の期待を超える踏み込んだ内容だった。
寺田典城もイーストベガス構想の質問に言及した。明らかに困ったような口ぶりだった。
「イーストベガス、トトカルチョマッチョマンというのですか、カジノ、ショッピング、私も相当幅広い方なんですけど、・・・うーん、これねー、皆さんの言っていることは、夢は分かるんですけどね、もう少し現実的に踏み込んで若い皆さんも考えていただきたいなーと。あそこの場所は空港がそばにありますから、ある面ではなんかトライしてみる場所でもあろうと、そのように思っていますし、そのことは理解できるんですが、カジノなんか日本の法律では基本的には無理なんでね、そういうことも含めて考えていただきたい。」
イーストベガス構想には現実性がない、その寺田の考えは前年11月の「あきた夢塾」で長谷川が構想をぶつけた時から変わっていなかった。
約2時間に渡った公開討論会の最後に、真壁善子が再び挨拶に立った。
「今回、私たちのような一市民でもこのようなことが出来るのだということを全県の皆様に知ってもらい、これから全県でこのような試みが多く行われればとスタッフ一同祈っております。」
真壁は、立候補予定者、会場の参加者、手話通訳、託児ボランティア、カンパや激励の言葉で応援してくれた人など後援会に関わり持った人々への感謝の言葉で挨拶を締めくくった。公開討論会は子どもを持つ人も参加出来るように託児所も準備されていた。
その日の深夜、日付が変わってから、秋田朝日放送は「緊急特別番組 知事選2001公開討論会」というタイトルで討論会の模様を中継録画で放送した。
公開討論会の3日後、3月29日、秋田県知事選挙が告示された。石川直人は由利本荘JCの理事長を経験した若手経営者と一緒に県選挙管理委員会に村岡兼幸の立候補を届け出た。それは現職知事と対立する陣営につくと旗印を鮮明にすることであり、県庁の現体制とは袂を分かつことを意味した。石川は秋田JC理事長だった関係から諮問機関の審議委員など多くの県の公職に就いていたが、それら全てを辞任した。
知事選への立候補者は大方の予想どおり寺田典城、村岡兼幸、奥井淳二の3人だった。寺田や村岡は実質的には前年から選挙に関する活動を始めており、告知日から投票日前日までの17日間は事実上、選挙戦の終盤だった。
寺田典城は、民主党や社民党の支援を受けながらも「県民党」を標榜し、どの政党からの推薦も受けなかった。寺田の陣営は県内各地で小集会や演説会を重ね手作りの活動を続けた。
村岡陣営は、自民党秋田県連の選挙事務所を設置したビルの中にJCの現役、OBを中心とする「秋田・未来をひらく県民の会」の選挙対策本部を設置し、この二つを両輪に選挙を進めた。自民党側の動きでは、小泉純一郎、橋本龍太郎、麻生太郎、扇千景、堺屋太一などの国会議員、東京都知事の石原慎太郎など大物政治家が次々に党総務会長の長男の応援に駆けつけた。その中に、馳浩もいた。まだ39歳の馳は現役プロレスラーでありながら、1995年7月に参議院議員に初当選し、2000年6月には衆議院議員に当選していた。秋田市川反の日本料理屋で開かれた集会に馳が村岡兼幸とともに参加した時のことだった。和室に並ぶ料理の膳を前にした一人の若い参加者が馳に訊いた。
「馳さんが見て、一番強いプロレスラーは誰ですか。」
馳浩は即答した。
「それは武藤(敬司)だね。」
一方、未来をひらく県民の会はJC人脈をフルに活用した。村岡兼幸の決起集会の時は、全国47都道府県のJC組織からメンバーが幟旗を作って駆けつけた。村岡が日本JCで活動をともにした元日本JC会頭、山本潤も兵庫県から秋田を訪れ、「村岡君は未来の秋田を見据えて判断し、誠実に県政を担える人物です」とエールを送った。
石川直人はイベント的な集会の演出も仕切った。石川が企画した集会の一つに、歌手、松山千春を招いてのトークショーがあった。直前の冬、松山千春が由利本荘地区の温泉旅館に宿泊しているという情報が石川に届いた。北海道出身の松山千春は自民党の鈴木宗男議員と親しいことが知られていた。石川は、村岡兼幸、もう一人のJCのOBと三人でその旅館に松山千春を訪ねた。石川は松山千春に村岡への応援とトークショーへの参加を頼んだ。松山千春はテレビなどから受ける感じとまったく違い、極めて腰が低かった。彼は石川に言った。
「いいですよ。何でもやります。」
村岡と松山千春のトークショーは投票日を約1週間後に控えた4月7日に県民会館で行われた。トークショーの司会は、石川直人の友人、桜庭みさおが担当した。石川はあらかじめ松山千春にその場で一曲歌ってほしいと頼み込んでいた。プロ歌手である松山にプロダクションを通さずそんな依頼をするのは御法度だったが、松山はそれを受け入れた。彼はトークの最中にこんなことを言い出した。
「今日は気分がいいから歌っちゃおうかな。」
そのタイミングで舞台の音響はトーク用から音楽用に切り替えられた。県民会館の音響は北川豊彦の会社、スタッフが担当していた。
歌い終わった松山千春は、貴公子然とした村岡兼幸の登場をこう言ってステージ上に迎え入れた。
「オレは見ればすぐ育ちが悪いって分かるけど、村岡さんは遠くから見ても育ちが良いって分かる。」
その時、客席では鈴木宗男自民党総務局長が一般参加者に混じって座っていた。
村岡兼幸の弟、村岡敏英は東京で父、兼造の秘書をしていたが村岡兼幸の選挙期間中はずっと秋田市内のホテルに泊まり込み、石川直人とともに選挙活動に携わった。石川は自分の会社、R&D創研の仕事は完全に棚上げにし村岡兼幸と一緒に県内各地を回る日々を過ごした。
投票日5日前の4月10日、秋田さきがけ新報は選挙戦終盤の状況を記事にした。記事は世論調査に基づいて次のように情勢をまとめていた。
「現職で再選を目指す寺田典城候補(60)が優位に立ち、無所属新人で元日本青年会議所の村岡兼幸候補(43)=自民、公明、保守推薦=が懸命に追う展開となっている。共産党公認の奥井淳二候補(48)は、寺田、村岡両候補のはざまで苦戦を強いられている。」
支持率など具体的な数字は挙げていないが、明らかに寺田のリードの大きさを示す記事だった。
石川直人は村岡陣営にあって、劣勢を感じつつも逆転を信じて選挙活動を続けていた。石川の胸には友人である村岡兼幸の力になりたいという動機だけではなく、自分自身に関する夢もあった。村岡が県知事になれば石川はその中心的なブレーンになるだろう。厳しい戦いの中、時に石川はブレーンとして村岡の県政に協力する自分の未来の姿を思い浮かべた。
4月15日、日曜日、すべてが決する日が訪れた。秋田地方気象台が秋田市での桜の開花を発表したのは3日前のことだった。
長谷川敦は雄和町の実家近くにある公民館を訪れて村岡兼幸への投票を済ませ、夕方から秋田市八橋の草生津川近くに建つユーランドホテル八橋の風呂につかり体を休めた。ユーランドホテルの社長、松村讓裕の誘いを受けてのことだった。長谷川は風呂から上がるとアロハシャツをイメージしたユーランドホテルの客用部屋着を着て、食事処のカウンター席でやはりアロハ姿の松村と一緒にビールを飲みながらテレビの開票速報開始を待った。
長谷川敦は、公開討論会でイーストベガス構想に関し「新しい発想を県政にも取り入れていかなければならない」と明言した村岡の当選に望みをかけていた。秋田県行政で最高の権限を持つ知事がイーストベガス構想を推進するという決定を下したら、長谷川の構想を誰も夢物語と言わなくなるだろう。ずっと長谷川が考えていたように、秋田県にとって構想は実現すべきプロジェクトとなる。
松村讓裕も村岡を応援していた。それはJCメンバーとして村岡と繋がりがあったという理由だけではなかった。イーストベガス構想に冷淡な寺田に松村は幻滅していた。寺田知事の下では構想を動かすことはできない。
二人は、村岡が当選したらその場で祝勝会をしようと言い合った。
午後8時、開票速報が始まった。長谷川と松村が視線を向けるテレビ画面では、開票開始後10分を待たず「寺田典城の当選確実」が流れた。NHKの出口調査では60%が寺田への投票だったと発表された。
時間が経つにつれて開票は増えていったが、どんなに開票が進んでも寺田典城の得票数は村岡兼幸の得票数の2倍の水準を維持していた。
開票結果という現実を前にして、期待が大きかっただけに長谷川と松村の失望も大きかった。どうしても、村岡兼幸が当選した場合と比べ今の状況の厳しさが思われた。長谷川は思った。
この結果は秋田の事なかれ主義、現職至上主義が顕在化したものだろう。去年11月のあきた夢塾以来、寺田知事との対話に取り組んできたが、まったく話にならなかった。この秋田県では、石原都知事のように首長がカジノ構想推進を表明するなどということはなさそうだ。これから次の知事選挙までの4年間は自分たちにとって苦難の日々になるだろう。イーストベガス構想の実現にはこれから長い時間がかかる。
彼は、真冬の極寒の中で開催したフォーラム2001のことを思い出した。あのフォーラムで井崎義治は一度ならず口にした。
「まちづくりは子育てと同じくらい長い日数がかかります。活動を継続していくためには、最初に立ち上がった者が倒れても、さらに若い者が後を継げるような組織作りが必要です。イーストベガス構想推進協議会といったような組織を立ち上げてはどうでしょうか。」
長谷川の頭には、石川直人の言葉も浮かんだ。
「君たち自身が圧力団体になるようじゃなきゃ、活動は進まないよ。」
確かに、選挙結果がこうなった以上、これから寺田県政に物を言えるだけの発言力を手に入れなければならない。
彼はカウンターの隣に座る松村に話しかけた。
「松村さん、イーストベガスのことですけど、推進協議会という組織を立ち上げたらどうでしょう。」
フォーラム2001で長谷川たちの本気度を確かめた松村は答えた。
「僕も同じことを考えていた。」
深夜、秋田県知事選挙の開票結果が確定した。
投票率73.34%
当選 寺田典城 450,146票
次点 村岡兼幸 226,506票
奥井淳二 23,806票
その日から、長谷川敦たちはイーストベガス構想を前進させるための組織作りに取りかかった。
(続く)